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コラム江戸

家康築城の浜松城は「出世城」となった。

浜松城(市指定史跡) この右側には天守門(平成26年復元)が建つ。天守台石垣のなかにはハート形の石がある?

元亀元年(1570)、徳川家康が浜松城を築いて入城。このとき引馬(ひくま)の名を浜松と改めた。この城域にはもともと引馬城があった。以前家康が今川領を攻略し手に入れた城で、ここを拡大して築いたのが浜松城である。引馬城の跡地には現在、家康を祀る東照宮が建っている。家康の生涯最大の敗戦といわれる「三方ヶ原の合戦」(武田信玄との戦い)で、命からがら逃げ込んだのがこの東照宮のある場所である。

浜松城は家康が29歳〜45歳までの17年間を過ごした所だ。戦国の荒波を乗り越えながら、いよいよ頭角を現し快進撃が始まった時期といっていいだろう。現在の浜松城天守は昭和33年(1958)に復興、その中は武具や城下町の模型などが展示されている。最上階は市内を一望できる展望台だ。
天守を支えている天守台(石垣)はほぼ当時のもので、400年の風雪に耐えている。この石垣を見るために訪れる城郭ファンも多い。一見すると乱雑に石を積んだように見えるが、野面積(のづらづみ)といって、自然石を奥深く上下に組み合わせて積み上げる手法である。水はけが良く、堅固な石垣といわれている。石垣の前に立て看板があり「登ったり、石を引き抜くことは絶対にしないでください」とあった。ということは、頑丈な石垣も石を引き抜けることが分かった。もちろん、してはいけないが。
余談になるが、石垣のなかにハートの形をした石があり、最近はこの「ハート石」を探しているカップルもいる。見つけられたら、幸せになるとか、縁結びに効くということらしい。

浜松城の特徴は野面積の石垣もそうだが、井戸である。計10本の井戸の他に湧き水もあったという。その内の1本は何と天守の地下にあった。隠し井戸をもつ城は少ない(名古屋城の天守地階にも井戸跡がある)。 天守の地下室に残る隠し井戸

城造りで重要なのは水の確保である。私たちが城を見るとき、外観や敵からの攻撃を防ぐ構造ばかりに目がいってしまうが、城の生命線は実は水にあるのだ。現代人はいとも簡単に水を使える生活が当たり前になってしまっていて、その重要性を忘れがちではないだろうか。水や水回りの視点から城を見てみるのも大事だと思う。
武将たちは水の確保に苦労した。井戸を掘って水を確保できればそれに越したことはない。地勢的にそれができなければ、水路を造り城外から水を引き入れてくることになる。
天守地下の井戸は籠城戦の備えだ。敵が城内に攻め入った場合、最終的には天守に立てこもり応戦することになる。
昭和33年の天守再建時に幸いこの井戸の跡は残された。直径1.3メートル、深さ約1メートル。石組みを桶のようなもので保護し、水はなく、底には砂利を敷き詰めている。

浜松城は俗に出世城といわれた。天下人となった徳川家康をはじめ、城主になった者の多くが幕閣に登用され出世したからだ。
歴代浜松城主二十五代(再任を含む)のうち、老中に6人、大坂城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人が登用されている(兼任を含む)。浜松城主になることは、まさにエリートコース。野望をもつ大名は禄(ろく)が減っても浜松に入りたかったようである。
その一人が天保の改革で有名な水野忠邦(ただくに)。忠邦は唐津城主(佐賀県)の時代から浜松転封運動を行って成功。浜松入り後は幕府の要職を経て、ついに老中首座まで上り詰めた人物である。

天守の近くに「若き日の徳川家康公」の銅像が建つ。右手には歯朶(しだ)の葉。歯朶の葉は家康の兜に採用されているもので、常緑で枯れないことから縁起が良く、長寿と子孫繁栄を意味する。その願い通り、長生きもしたし幕府は260余年もちこたえた。若き日の家康は、盤石となる徳川の時代を見据えているかのようである。 「若き日の徳川家康公」
(浜松城公園内)

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『浜松城と家康公』浜松公園緑地協会

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

浜松餃子 写真提供:浜松観光コンベンションビューロー

餃子は宇都宮、それとも浜松?

宇都宮の餃子に比べ浜松の餃子はそれほど知られていないような気がする。知名度の高い鰻の陰にかくれてしまっている感があるので、ここで紹介しておきたい。
実は宇都宮市と浜松市は、毎年餃子の消費量日本一を争っている。平成28年(2016)の1世帯(2人以上の世帯)当たりの餃子購入金額は、1位浜松市・4,818円、2位宇都宮市・4,651円、3位宮崎市・2,895円(浜松市発行のPRブックより)となっている。こういう金額をどうやって算出できるのか、不思議ではある。私たちは「日本一」という言葉に弱い。どうやら餃子日本一を争う両市の話題づくり・PR合戦に乗せられているようだ。

餃子を日本人が食べるようになったのは戦後のことである。日本の食文化史のなかでは新しい食べ物だ。調べてみると、中国からの復員兵が餃子の製法を持ち込んだらしい。最初は屋台で販売された。この歴史は浜松も宇都宮もほぼ同じ時期のようだが詳しいことは分かっていない。中国では水餃子が一般的だったのに対し、日本ではこのとき焼き餃子にアレンジしたのが広く普及した原因だと思える。

浜松餃子の特徴は皿に盛られたその形。円形状に並べて焼いた餃子の中央部に、もやしを付け合わせる。餃子を食べているとき油っぽさを感じたら、もやしを食べてすっきり、また餃子がすすむという工夫である。
浜松餃子学会という団体がある。そのホームページに浜松餃子の定義が載っていた。「浜松市内で製造されている事」、さらに「3年以上浜松に在住」という条件が付加されている。なぜ3年なのか分からないが、それはそれとして、おいしい浜松餃子をいただこう。

文 江戸散策家/高橋達郎

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