サイト内コンテンツ

コラム江戸

勝海舟、軍艦咸臨丸で太平洋横断。

咸臨丸烈風航行の図 『万延元年遣米使節図録』より 出典 国立国会図書館貴重画データベース
肖像写真出典 『徳川の三舟』国立国会図書館貴重画データベース

その名前からして勇ましく航海術に長けていそうな、勝海舟。荒波を乗り越え、初めて太平洋横断に成功した咸臨丸艦長の名にふさわしい。が、乗組員を指揮するはずの勝はサンフランシスコに着くまで殆ど伏せっていた。船酔いによる体調不良である。
「軍艦操練所教授方頭取」を務めた人物が船酔いなどするものか、と思うが『航米日誌』や残された資料からみると明白である。同船したアメリカ海軍士官の助力があったからこそ航海できたともいわれている。情けないような、可笑しなエピソードではある。

咸臨丸のアメリカへの航海は、アメリカの軍艦ポーハタン号の護衛だった。万延(まんえん)元年(1860)の「遣米使節団」というのは、咸臨丸とポーハタン号の2艦に別れて出航したと考えると整理がつく。咸臨丸には木村摂津守(軍艦奉行)、勝海舟(艦長)、福沢諭吉、ジョン万次郎(通訳)などが乗り、ポーハタン号には新見正興(しんみまさおき)、小栗忠順(おぐりただまさ)などが乗った。
勝の咸臨丸ばかりが目立つが、実は随行役の軍艦である。主役はあくまでもポーハタン号で、渡米の目的は日米修好通商条約の批准書交換。外国奉行である新見が正使として乗艦したのである。なお、副使は咸臨丸の木村摂津守だった。ポーハタン号は、嘉永7年(1854)ペリーが開国を求めて日本に再来した時の旗艦船だ。日米修好通商条約の締結はこの艦上で行われたという経緯もある。

咸臨丸は日本製でなくオランダで造られた軍艦で、軍備拡張を急いだ幕府の長崎海軍伝習所のいわば練習艦(排水量620t)である。乗組員の多くは伝習所の生徒たちである。外国人技術士も同船し総勢約100名、護衛艦といっても実際は一緒に航海したわけでもなく、日本を出発した日にもズレがある。サンフランシスコには咸臨丸が先に到着し、ポーハタン号の入港を待った形だ。
この状況からみると護衛とか随行はどうやら名目に過ぎず、咸臨丸や勝、幕府が自らの航海術を試した感が拭えない。本当にアメリカまで行って帰ってこられるか、である。万延元年1月13日に出航、「遣米使節団」一行はサンフランシスコで大歓迎を受けた後、咸臨丸の復路はハワイに寄港し、5月6日大業を成し遂げて帰国。これが日本人の初めての太平洋横断航海とされている。

  • 勝 安芳(海舟)銅像(墨田区吾妻橋1-23)

快挙を成した咸臨丸だったが、苦難の歴史がある。「江戸城無血開城」が決まった後、海軍副総裁榎本武揚は新政府への軍艦引き渡しを拒否し、幕府の軍艦を率いて品川沖から江戸湾を脱出。そのなかに「咸臨丸」も含まれていた。しかし時化に遭い榎本艦隊とはぐれ、船の修理のために清水港へ。それを新政府軍が見つけて攻撃、船は残ったものの乗組員は無惨だった。
この時登場するのが、あの侠客(きょうかく)、清水の次郎長である。「仏に官軍も賊軍もない」と言って手厚く葬ったという。さすが次郎長親分、男気がある。静岡市の築地町に「壮士の墓」が残る。また、清水港近くの清見寺には「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建立されている。慶応4年・明治元年(1868)9月のこの清水港咸臨丸事件を勝はどう捉えたのだろうか。事件後咸臨丸は品川沖に戻され、新政府所管の輸送船となった。

考えてみれば、勝はいつも歴史の表舞台を歩いてきた。東征軍参謀の西郷隆盛と談判し「江戸城無血開城」に導いた勝の活躍は衆目の通りである。西郷とは敵対する側にあっても、馬が合ったようである。面白いことに、西郷は「第1次長州征討」の際、長州との和睦を幕府の命を受けてまとめ、勝は「第2次長州征討」の際、同じく幕府の命で長州と講和を結ぶという大役を果たしている。その二人が、今度は新政府代表と旧幕府代表の立場で会談し、江戸を戦火から守った。歴史の不思議な巡り合わせというほかない。

勝は蘭学が得意の知識人、幕臣として能力を発揮し将軍からも信頼された。門下生も多く、この時代に活躍した主要な人物とも交流が多い。ただ勝は他の人と違っていたことがある。それは、旧幕府の徹底抗戦派から命を狙われるも、長生きをしたことである(明治32年没、享年77歳)。
坂本龍馬も、旧幕臣の小栗上野介も、西郷隆盛も、大久保利通も……、皆志し半ばにしてこの世を去った。勝は維新後、旧幕臣ながらも新政府に仕え要職に就いた。また、朝敵となった徳川慶喜の赦免に奔走している。その甲斐あってか、新政府に恭順した慶喜は余生を送ることができた(大正2年没、享年77歳)。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『万延元年遣米使節図録』田中一貞
『氷川清話』講談社学術文庫

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

勝海舟・坂本龍馬の師弟像(港区赤坂6-6-14) 向かって左が海舟、右が龍馬

勝海舟ゆかりの地、赤坂。

勝と龍馬が並んでいる銅像が赤坂にある。平成28年9月、二人の子孫や関係者が参列し除幕式が行われた。龍馬と勝の初めての出会いが赤坂の勝邸である。龍馬の人生の転機となった場所で、ドラマなどでは攘夷派の龍馬が勝を斬りにきた設定が多いが、実際どうだったかは疑わしい。とにかく勝邸で、世界の情勢に明るい勝の開国論に感激し、心を変えるばかりか弟子入りまでしたのだ。銅像の建つ場所は、勝が明治5年(1872)の50歳頃から亡くなるまで住んでいた屋敷跡である。

赤坂に最初に住んだ場所は「赤坂田町」。現在のみすじ通り(赤坂3-13-2)で、借家住まいだった。今は海鮮居酒屋「どまん中」のあるビルになっている。勝の足跡を示す物が何も残っていないのは残念である。
次に「赤坂本氷川坂下」(現ソフトタウン赤坂)に転居。この頃が勝の最も活躍した時代で、咸臨丸で渡米したのも、龍馬が会いにきたのも赤坂本氷川坂下である。
最後に住んだのが二人の銅像が建っている場所、だから本来銅像は赤坂本氷川坂下に建つべきだった。細かいことを言ってもしかたないので、銅像を見たらこちらの邸宅跡にも足を運んでみよう(説明板有り)。


  • ①邸宅跡 (港区赤坂6-10-39ソフトタウン赤坂)

  • ②赤坂本氷川坂

海舟は号、通称は麟太郎、名は義邦、安房、安芳など。文政6年(1823)本所亀沢町の生まれ。7歳まで過ごした後は赤坂へ転居。赤坂では都合3カ所に住んだ。墓所は洗足池公園内(大田区南千束)にある。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

文章・画像の無断転載を禁じます。