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コラム江戸

江戸の人々が可愛がった動物たち。

(左)『東錦絵』(右)『時世粧菊揃』 一勇斎国芳 出典 国立国会図書館貴重画データベース

動物との付き合いも、人々の暮らしの一こまである。人々は身分を超えて、色々な動物をペットとして可愛がっていたようだ。代表的なのは現代と同じ、犬と猫。武家や町人、長屋の住民にとっても身近な動物だった。
犬猫の他には、鶯(うぐいす)・鶉(うずら)、金魚、鈴虫なども。鶯は「鳥合わせ」が行われるほどの人気があった。「鳥合わせ」とは鳴き声を競うコンクールで、どんな基準で判断するのか分からないが、江戸の人は随分と風流なことをしていたものだと思う。

江戸初期(鎖国前)には西洋から大型犬が入ってきたこともあり、武家は威厳を表すためか、この大きな犬を好んで飼育した時期もあった。時代が下ると、いわゆる日本犬が主流となって、江戸の町のあちこちに犬がいたようである。
「伊勢屋、稲荷に、犬の糞(いせや、いなりに、いぬのくそ)」といわれたように、江戸の町には伊勢屋の屋号をもつ店、お稲荷さん、それに犬が確かに多かった。犬は浮世絵や絵図の中にも見つけることができる。広重の『名所江戸百景』にも、長谷川雪旦の『江戸名所図会』にも、ワンポイントなのか何なのか、人と一緒に犬がチャッカリ路上に描かれているのだ。
その辺にいつも犬がウロウロしていたとすると、野犬だろうか、それとも飼い犬だろうか判別がつかない。推測するに、犬はかなり自由に動き回っていたようで、長屋の地域などでは、長屋の住人全体の飼い犬としての位置付けだったと思う。特定の飼い主がいるわけでもなく(狭い長屋には犬を飼えるようなスペースはない)、長屋全体のペットとして餌をやれる人が適時与えて、みんなで可愛がっていたのではないだろうか。犬は番犬としても役立つばかりか、子どもたちのいい遊び相手でもあった。

武家から庶民に至るまで幅広く愛玩された猫は、犬より気軽に飼えたペットだろう。ネズミを捕ってくれるという実用性もある。
江東区の「深川江戸資料館」には長屋の建物が再現されている。その屋根にはちゃんと猫が鎮座していて、動いたり鳴いたりするのだ。もちろん機械仕掛けで動く作り物の猫だが、これがまた、素晴らしく長屋住まいのイメージに合って、猫も長屋の住人と言わんばかりの雰囲気だ。長屋の暮らしを知るなら、猫まで含めてぜひとも見学しておくべき資料館である。

  • 『千代田の大奥』(左に狆が描かれている)国立国会図書館貴重画データベース

狆(ちん)という動物は、馴染みがないかもしれないが、犬の一種である。普通の犬より小さくて、愛嬌のある扁平な顔の周りはふわふわした毛で覆われている。「座敷犬」と呼ばれるように、室内で飼われ、最初は大奥、大名家、遊郭などで流行したようである。上流階級のステータスシンボルであった狆は、だんだん一般に広まったが、その人気は明治・大正期までである。

江戸時代、動物に関する特記事項としては、貞享4年(1687)、五代将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」がある。本来は、生き物を憐れみ大切にするという程度の法令だったが、次々と新しい法令が追加されエスカレートしていった。犬を斬って死罪、顔を刺した蚊をたたき殺して流罪となったケースもあったようである。こういう話は誇張もされているにしても刑罰は厳しかった。刑罰の具体的な内容はそれほど詳しく判明してはいない。とにかく人々にとっては迷惑千万、歴史上稀にみる奇怪な法令だった。
それにしても、何でこんな「犬公方」の愚行を周りの幕閣が抑えられなかったのか不思議である。政治とはそういうものなのか、あの水戸光圀公でさえ止められなかった。この悪令は、家宣が次の六代将軍に就き廃止するまで約20年もかかっているのだ。
綱吉を少しフォローしておきたい。将軍綱吉時代の前半は、名君としての評価が高い。四代将軍家綱の時代から始まった「武断政治」から「文治政治」への切り替えを一層推し進めた功績である。幕政の実権を取り戻し「天和の治(てんなのち)」と称される善政を敷いた。儒学を重視し、学問の拠点として湯島聖堂(後の昌平坂学問所)を建立したのも綱吉である。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『歴史読本』2009年6月号

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

『享保十四年渡来象之図』 出典 国立国会図書館貴重画データベース

八代将軍吉宗のペットは、象?

象をペットと呼んで良いものか悩むところである。愛玩動物のイメージとしてはあまりにも大きく、一般人の手に負えるような代物ではない。それが将軍ともなればわけが違う。象を手に入れることができたのである。
将軍吉宗は象を所望した。珍しさもあっただろうが、将軍の権力を誇示し、偉大さを知らしめるには象はちょうど良い動物だった。

象は交趾国(コーチコク・コウシコク/現在のベトナム北部)から将軍への献上というかたちでやってきた。享保13年(1728)6月、牡・雌(オス・メス)2頭が中国船で長崎へ到着。しかし、長旅の疲れか雌象のほうは9月に長崎の地で亡くなり、翌年3月に牡象だけが随行人と共に出発、5月に江戸に到着している。
途中、京都で中御門(なかみかど)天皇が観覧。その際、象には「広南従四位白象」という官位が用意された。天皇に「拝謁」するには象もそれなりの身分が必要だったというから面白い。「従四位(じゅしい)」という位階は大層な位で、10万石以上の大名並みだ。史上最も偉い象である。官位は天皇のお戯れということか…。
陸路を歩いてきた御用象、珍しもの見たさに沿道には人があふれた。献上された象は、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で10年以上飼育された。後に中野村の百姓源助に譲渡され寛保2年(1742)に病死。中野村で飼育された場所は、かつて五代将軍綱吉が「生類憐れみの令」の時の「御犬小屋」があった場所の近くだったという。

文 江戸散策家/高橋達郎

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