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コラム江戸

日本近代化の原点、長崎「出島」。

『出島屋舗 阿蘭陀』長谷川雪旦
出典 国立国会図書館貴重画データベース

『江戸名所図会』の挿絵で有名な長谷川雪旦は、1820年頃の出島のカピタン部屋の風景を描いている。

復元されたカピタン部屋(2019年撮影)

二百十数年の間、鎖国下においてヨーロッパに唯一開かれていたのが長崎の出島である。オランダとの交易地であり、海外情報の入り口が出島だった。西洋の進んだ医学や科学、多くの物品、風習などが出島のオランダ人によって日本にもたされた。「蘭学」と呼ばれた西洋の文化や学問の上陸地も出島である。

出島はもともとあった島ではない。浅瀬に造成した築島である。どうしてまた、わざわざ島など造ったのか──それは、幕府が西洋人のキリスト教布教を恐れたためである。島に閉じ込める作戦だ。一方で、幕府は南蛮貿易が多額の利益を生むことを経験上よく知っていた。長崎の商人たちも同じである。
貿易はしたいが布教は避けたい、というのが幕府の本音だったのだろう。それが寛永13年(1636)出島誕生の背景にある。

長崎の貿易は戦国時代にさかのぼる。領主大村純忠(おおむらすみただ)は、ポルトガル人との協定のもとに南蛮船の寄港を許可し、貿易が始まっていた。同時にキリスト教も入ってきたのは言うまでもない。大村純忠は熱心な信者となり、日本初のキリシタン大名としても知られる人物だ。彼もまた宣教師とともに布教を推し進め、長崎市中には多くの教会が建ち信者も増えていく。
キリシタン大名も増えたことからキリスト教に脅威を感じた豊臣秀吉は、天正15年(1587)に伴天連(バテレン)追放令を出して禁教政策に舵を取る。それにしてもかなり荒っぽい方法をとったものだ。宣教師を国外追放し、慶長2年(1597)にはキリシタン26人を処刑(26聖人の殉教)するなど、残刻無慈悲な方法だった。

江戸幕府も禁教政策を受け継いだ。市中にいたポルトガル人(カトリック)を出来上がったばかりの出島に強制移動、3年後には国外追放した。出島は一時無人になったが、やがて幕府はオランダ人(プロテスタント)を居住させるようにしたのだった。
幕府とポルトガル人との関係悪化を決定的にしたのは、寛永15年(1638)に勃発した島原の乱。キリシタン天草四郎が籠城する原城を制圧する際、オランダ船は海上からの砲撃によって幕府側を助けた。そんな経緯もあって、幕府はキリスト教の布教をしないという条件付きで、貿易の相手国をポルトガルからオランダに切り替えたようである。オランダ人は出島に閉じ込められるようなことになったが、幕府もオランダも貿易を続けたかったということだ。
1641年、平戸にあったオランダ商館が出島に移転、諸説あると思うが、これをもって「鎖国の完成」をみることができる。したがって、外国貿易はオランダと中国の2国のみとなったのである。なお、中国人(唐人)は長崎市中に居住が許されており、後に幕府は現在の十善寺地区に「唐人屋敷」を建設して住まわせている。

  • 1820年代頃の出島 『異国叢書[第5] 出島の図』より
    出典 国立国会図書館貴重画データベース

オランダ船から出島に陸揚げされる輸入品をみてみよう。「砂糖」「生糸」「織物」などは重要品目だ。砂糖は両国とも膨大な利益を生んだため、幕府は国内の砂糖生産を統制してまで輸入量を維持した。オランダも船の航海上、砂糖袋は重いので船のバランスをとるために都合が良かったようである。帰りは出島から輸出品である「銅」を積み込んで出航、船の安定性は保たれるという具合だ。
「皮」は軍事の面から武士には不可欠な品目で、鹿革は鎧や足袋、手袋などに、鮫皮は刀の鞘(さや)や柄(つか)に使用された。
日本からの主な輸出品は「銅」。最初は“黄金の国”と日本が思われていたように金銀を輸出していたが、幕府はこの流出を抑えるために徐々に銅に切り替えていった。「陶器、磁器」は需要が高く特に有田磁器は人気があったという。「醤油、酒」などは船の揺れに強い「コンプラ瓶」と呼ばれる容器に入れられて輸出された。意外なのは「樟脳(しょうのう)」、防虫剤だ。原料となるのは薩摩や五島の楠木(くすのき)、これを蒸留して結晶化したものである。

オランダ船は、全ての物品をヨーロッパに持ち帰ったわけではない。その多くは途中の国で売買を繰り返し、各地で利益を得て最終的には香辛料の原料となる「胡椒(こしょう)」の確保が狙いだった。日本も途中の一国に過ぎないともいえる。オランダ船は、アジア各地の豊富な鉱産資源や農産物に着目していたのは確かである。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『出島』長崎市文化観光部出島復元整備室
『長崎游学9』長崎文献社

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

自由亭(グラバー園内)

長崎は、西洋料理発祥の地?

長崎のグラバー園の中に「西洋料理発祥の碑」という碑がある。さて、これはどういうことだろう? 西洋料理ではあまりにも漠然としている。それに、西洋料理は、この長崎発祥の料理だと言っているようにも読める。

とても不思議な碑に思い、脇にあるもう一つの碑文に目をやると──「わが国西洋料理の歴史は16世紀中頃、ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技は戦国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたされた。…(略)…ここに西洋料理のわが国発祥を記念しこの碑を建てる。」と書かれていた。
わが国に初めて西洋料理(南蛮料理)を伝えたのは、戦国時代に渡来したポルトガル人やスペイン人だろうが、本格的に西洋料理を日本に持ち込んだのは、紛れもなく出島のオランダ人だ。その意味で発祥の地といえる。
そのオランダ商館で調理師として西洋料理を学び、日本初の西洋料理の専門店を開いた人物がいる。長崎生まれの草野丈吉(1836〜86)だ。文久3年(1863)、「良林亭」を開業。大阪、京都にも進出して活躍し、晩年は長崎に戻り諏訪神社近くに「自由亭」を開業した。

碑の隣に「自由亭」が移築復元されている。移築したために「発祥の地」でなく「発祥の碑」になったのだと分かった。「自由亭」は喫茶室として利用されているので、グラバー園の散策途中ひと休みできる。建物の前には草野丈吉の胸像、プレートには「日本西洋料理の開拓者」として称えられている。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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