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文 江戸散策家/高橋達郎

コラム江戸

第85回紅葉は、品川「海晏寺」にとどめをさす。

『江戸自慢三十六景 海案寺紅葉』広重 (海晏寺は海を臨める紅葉狩りで人気だった)
出典:国立国会図書館貴重書画データベース

♪〜 あれ見やしゃんせ 海晏寺
      真間(まま)や高雄(たかお)や竜田(たった)でも
        及ぶまいぞえ 紅葉狩り 〜♪

秋の行楽は、やはり紅葉狩りということになる。江戸には花見(桜)の名所があったように、紅葉の名所もあり、紅葉狩りの見物客で賑わった。江戸の紅葉といえば、品川鮫洲の「海晏寺」と浅草の「正燈寺(しょうとうじ)」である。ちょっと足を延ばして下総国の真間の「弘法寺(ぐほうじ/現千葉県市川市)」も有名だった。

冒頭の唄は、江戸端唄(はうた)と呼ばれるものの一つで、江戸中期から後期に流行した俗曲、座敷唄である。長唄と違って短く自由で、洒落や風刺の利いたもの、男女関係を唄った端唄もある。こういう端唄にもまた、江戸の「粋」を感じずにはいられない。人々は海晏寺の紅葉を楽しんだ後、どこかの座敷で三味線を伴奏にこんな唄を歌いながら酒食を共にしたのだろうか。

この端唄には、紅葉の名所が詠み込まれている。「真間」は前述の「弘法寺」、「高雄」は京都の「高雄山」、「竜田」は奈良の「竜田川」、いずれも紅葉で知れ渡った場所だ。竜田川などは『千早ぶる神代もきかず竜田川 から紅に水くくるとは(在原業平)』の歌でもおなじみである。つまり端歌は“世に名の通った紅葉はいっぱいあるけれど、海晏寺の紅葉こそナンバーワンである”と言っているのである。自信たっぷりの唄で、それほどの紅葉を観て酒宴を催したら、さぞかし楽しかろうと思う。

海晏寺(品川区南品川5-16-22)は鎌倉時代、執権北条時頼の命によって創建(1251年)された。その後衰退していた寺を家康の江戸入府(1590年)後に再興、江戸時代は徳川家の庇護を受けた。江戸後期の図絵をみても寺域は広大なものである。そういう恵まれた環境にあって、堂宇やそれを取り巻く樹木、紅葉もきちんと整備されたのだと推測する。海晏寺は、品川沖で上がった大きな鮫(さめ)の腹の中から観音像が発見され、それを安置するために創建されたという由緒をもつ。鮫洲(さめず)の地名もこの鮫からきているようだ。

正燈寺(台東区竜泉1-23-11)の創建は承応3年(1654)、江戸中期には、「もみじ寺」と呼ばれるほど紅葉で有名になった。『江戸名所図会』では「当寺の後園楓樹多し 其先山城高雄山の楓樹の苗を栽うると云ふ 晩秋の頃は詞人吟客こゝに群遊し 其紅艶を賞す」と説明している。楓樹(ふうじゅ)とは紅葉のことである。正燈寺の紅葉が、ほんとうに京都高雄の紅葉を運んだものだったとすれば、見事な紅葉だったに違いない。文人墨客が多く訪れたのも頷ける。小林一茶も、文化元年(1804)の秋、正燈寺、海晏寺を訪れそれぞれの紅葉を詠んだ句を残している。

この二つの寺が人気を集めたのは、紅葉の素晴らしさの他にも理由があった。海晏寺の近くには品川遊廓があり、正燈寺の近くには吉原が控えていた。紅葉狩りは、男たちのいい口実である。川柳に残されているように「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」「紅葉狩り例年行けどもいまだ見ず」という輩もいた。

江戸の紅葉の名所はこの他にも、上野寛永寺、谷中天王寺、王子瀧野川、根津権現、品川東海寺、目黒不動尊に祐天寺など…。こうしてみると、春の花見と重なる場所も多い。桜の花見に比べて紅葉狩りのほうは、いくぶん趣きが異なり静かだった。紅葉狩りは、桜の下でどんちゃん騒ぎをするようなノリはない。この浮世絵のように女性や子どもも紅葉狩りをしただろうが、多くは「文人、医者、僧侶、豪商、武士」といった人たちだった。

海晏寺も正燈寺も現存の寺だが、今は紅葉があまりなく、紅葉狩りのスポットとしては程遠くなってしまったのが残念である。海晏寺の紅葉は、理由は不明だが明治初期に伐採された。後に若木が植えられたが、現在はどうやら墓所になっているようである。  正燈寺の紅葉は、江戸後期の『東都歳事記』によると半枯れ状態だったらしい。また、関東大震災や空襲ですべてが焼き尽くされてしまったが、苦難を乗り越え再建された。  歴史的にみれば、正燈寺の紅葉は江戸中期に最盛期を迎え、海晏寺の紅葉は江戸末期まで持ちこたえたということになろう。

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

六義園 (東京都文京区本駒込6-16-3)

大名庭園で味わう紅葉「六義園」

都心に住む人は今、どこの紅葉を観に出かけているのだろうか。新宿御苑や明治神宮外苑、小石川後楽園、向島百花園、井の頭恩賜公園辺りか。ちょっと遠出をして高尾山、御岳渓谷や奥多摩もいい。江戸の雰囲気も一緒にというなら、この六義園はおすすめのスポットだ。
六義園は、五代将軍綱吉の側用人(そばようにん)を勤めた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が下屋敷に造営した大名庭園である。彼は綱吉が館林藩主の時代から仕え、異例の出世をした人物として知られている。綱吉が将軍職に就いてからは加増に次ぐ加増で大名にも名を連ね、将軍を後ろだてに老中を凌ぐ権勢を誇った。
将軍から拝領した土地に柳沢吉保が造園したのが六義園である。川越藩主の時代、和歌に造詣が深かった彼は「古今和歌集」をテーマに、元禄8年(1695)から7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水」の大名庭園を完成させた。将軍との親密な関係は続き、頻繁に“お成り”があったことから、将軍綱吉も幾度となくこの庭園を吉保とともに歩き、紅葉を眺めたのではないかと思う。
庭園は明治に入って、岩崎彌太郎(三菱の創業者)の別邸となり、昭和13年(1938)に岩崎家が東京市に寄贈している(後に国の特別名勝に指定)。そのおかげで一般に公開され、今は誰でも四季の花々や紅葉を楽しむことができるようになった。
幸いなことに、六義園は江戸の大火に巻き込まれることなく明治を迎え、震災や空襲の被害もあまり受けずに江戸の大名庭園の面影を今に伝えている。
『東都歳事記』では江戸の紅葉は立冬から七、八日目頃が見頃とされており、今は温暖化の影響かもう少し遅くなっているようだ(2013年の立冬は11月7日)。
なお、六義園の紅葉は11月中旬から色づき始め、見頃は11月下旬〜12月上旬である。

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