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コラム江戸

家族や地域の絆を結ぶ祭り、御柱祭。

『諏訪大社 御柱祭 木落し』(前宮二/米沢・湖東・北山) -平成28年4月-

御柱の概要

祭りというのは不思議な力をもっている。信州諏訪(長野県)の御柱祭、7年に一度行われる一風変わった田舎のお祭りだが、各メディアで紹介されて、近年は全国的に知られるようになった。観光客を呼び込むためでも、最近はやりの“地方創生”の一環でもない、1200年も続く厳然たる神事、祭りである。
祭りに参加するのは、地元の老若男女の氏子たち。家族を連れて全国から集まってくる諏訪出身者も多い。引き綱を取って巨大な丸太を曳(ひ)くという祭りは、考えてみれば原始的な行為かもしれないが、祭りを通して親子や家族、親戚一同、地域の人々の繋がりを確認し合えるのも事実である。

諏訪大社上社 本宮

御柱祭は諏訪大社の祭りだ。諏訪大社は、全国津々浦々に1万社以上の分社(諏訪神社)をもつ神社である。創建は奈良・平安時代と思われ、平安初期の武人、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東国平定の際、この諏訪大明神の神助を賜ったとの伝説があるほど古く、起源などの詳細ははっきりしていない。
時代を通じて諏訪大社は武人との関係が深い。それは、主祭神である建御名方神(たてみなかたのかみ)が戦いの神として位置付けられていたからだ。本格的な武家社会が始まる鎌倉時代から戦国時代・江戸時代には特に有力武将から注目を浴びた神社である。信州諏訪を征服するには、やはりこの諏訪大社を押さえておく必要があったのではないかと思う。
大河ドラマ『真田丸』で諏訪大社が登場している。といっても、本宮のすぐ隣の法華寺(ほっけじ)でのシーン。法華寺は本宮の神宮寺(神社に付属する寺院)で、織田信長は信濃を制圧後、ここに本陣を置いた。信長が明智光秀を折檻したと伝わる寺だ。『真田丸』では、信長に出仕しようとする父、真田昌幸に伴ってこの法華寺を訪れていた信繁(幸村)がその様子を目撃してしまうシーンがある。この事件が、2カ月も経たないうちに起こった光秀の謀反、「本能寺の変(1582年)」の引き金になったともいわれている。
信長が諏訪に入るにあたり、軍勢に諏訪大社本宮を焼き討ちさせた。この地を支配していたのは武田信玄・勝頼である。武田家が諏訪大社を守護神としていたからなのだろうが、それにしても信長は荒っぽいことをしたものだ。諏訪の民衆に受け入れられるはずもなく、理解に苦しむ。

一方、信長に滅ぼされた武田家(信玄・勝頼父子)は信仰厚く、諏訪大社を保護してきた経緯がある。勝頼の母は、諏訪領主・諏訪頼重の娘(諏訪御料人)という関係もあった。信玄は信濃一国を領有後、衰退していた式年造営(御柱祭)に力を入れ復活させた名将だ。そのおかげで、戦国時代にも御柱祭が行われていたのである。

江戸時代には、諏訪高島藩が御柱祭の総指揮をとった。郡民(領民)は、ほぼ全員諏訪大社の氏子に相当していただろう。高島藩には御柱奉行という珍しい奉行職が置かれている。徳川将軍家も諏訪大社を崇敬していたので問題はない。御柱奉行を中心に藩をあげての祭りとなった。物々しい御柱行列もあった。御柱を警護し、神社に導くための大名行列のような行列で、騎馬行列をはじめとする高島藩の重役職、神職、御柱各役職などが加わり、槍・弓・鉄砲、挟箱(はさみばこ)持ちなどの供揃い(ともぞろい)も整えていた。今は、その流れをくむ華やかな騎馬行列となっている。

平成28年の御柱祭、祭りを観るなら2つの山場があることを覚えておきたい。御柱を35度近い急勾配の坂から落とす「木落し」と御柱を社殿の周りに建てる「建御柱」だ。
上社の御柱祭を紹介すると……●山出し「木落し」/4月2、3、4日(終了、上部写真) ●里曳き「建御柱」/5月3、4、5日。
下社の場合は、後ろにそれぞれ約1週間ずれて行われる。
いずれの御柱祭も人出の多さに驚く。この山間部にどこから人が湧いて出たのかと思うほど人が多い。注意して出かけよう。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

小さな祠の御柱

小さな祠の御柱(長野県茅野市玉川)

あそこにも、ここにも建つ御柱。

諏訪大社というのは、上社(本宮、前宮)と下社(秋宮、春宮)の総称である。御柱は一つの宮につき社殿を囲んで4本建てるので、計16本の御柱がある。が、それだけではない。諏訪大社の御柱祭が済むと、その次は諏訪地方一帯をはじめ、長野県下では春から秋にかけてさまざまな御柱祭が続く。

小宮(こみや)と呼ばれる諏訪大社に関係の深い神社の御柱祭が次にあり、地域の鎮守や産土神、さらには小さな祠(ほこら)まで御柱を建てるのだ。祭りの規模も御柱のサイズもだんだん小さくなる。この段階になるともう、信仰というよりも風習というべきだろう。
写真は、私の実家の御柱である。誰を祀ってあるのか、何を祀ってあるのかは誰も分からない。そんなことは大した問題でなく、先祖代々、昔から敷地内に祠があるので自然な行為として御柱を建てている。御柱祭は夏ごろ家族と親戚で行い宴を囲む。木遣り歌を歌い、幼少の子どもたちが小さな御柱を曳(ひ)く。これも楽しい7年に一度の御柱祭だ。
諏訪に生まれ育った私は何回も御柱祭を見てきた。東京での生活が長いが、上京したころ驚いたことがある。不思議なことに東京のどこの神社に行っても御柱がない。笑い話のようだが、神社に必ず鳥居があるように、御柱も建っているものだと思っていた。御柱祭などどこにもないという。諏訪独特の祭りであることを知らされた(実際には県外の諏訪神社で御柱祭が数例ある)。

諏訪大社の御柱祭は、基本的には地域氏子たちの奉仕活動である。観光化・イベント化もしているが、それもまたいいだろう。祭りは人を呼び込み、人と人を引き合わせてくれる。地域が一体となって、連帯感や感謝の気持ちも湧いてくる。7年に一度なら、なおさらだ。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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