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コラム江戸

第96回 梅の名所、水戸の「偕楽園」と「弘道館」。

偕楽園 好文亭 茨城県水戸市常磐町1-3-3  (平成28年2月20日撮影)

幕末に向けて日本が大きく変わろうとする時期に、水戸藩は二つの施設をつくった。日本三名園の一つに数えられる「偕楽園」と、当時日本の最大規模の藩校だった「弘道館」だ。

これらの施設は平成27年に日本遺産に認定された。「近世日本の教育遺産群〜学ぶ心・礼説の本源〜」とのタイトルが付く。日本遺産とは、文化庁が“地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー”を認定するもので、国内外への魅力発信や地域活性化を図る国の事業である。
残念ながら日本遺産を知る人はまだ少ない。どうも我々日本人は世界遺産ばかりに気をとられて、踊らされているような感がある。外国からとやかく言われず、日本独自の日本遺産があってもいい。こんな活動を大切にしていきたいものだ。
日本遺産の認定が始まったのが平成27年からで、まだ日が浅く知名度は低いが、その栄えある第1回目の認定となった。
なお、弘道館は重要文化財(昭和39年指定)である。

文化財の話はともかく、一般に慣れ親しんでいるのはやはり「梅」だ。特に偕楽園の梅は全国的に有名で、弘道館の梅もまた美しい。江戸時代の人も早春の香りのなかで梅を観たことだろう。
水戸の春は、梅の花から始まる。水戸は一度は訪れてみたい梅の名所、例年「水戸の梅祭り」が2月20日〜3月31日まで開催される。偕楽園は『孟子』の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ」からきている。偕楽園をつくった藩主徳川斉昭(なりあき)の、領民と楽しみを同じくしたいという願いが込められた名称である。

偕楽園には約100品種3,000本の梅があり(弘道館には約60品種800本の梅がある)、しかも早咲き、中咲き、遅咲きと長期間にわたり梅の花を楽しめるのが特徴だ。園内には、木造2層3階建ての建造物と平屋建ての奥御殿から成る「好文亭(こうぶんてい)」があり、周囲の美しい景観の中で静かな佇まいを見せている。好文亭は昭和20年の空襲で焼失、昭和33年に復元された建物で、もともと斉昭が自ら設計したと伝わる。

歴代の水戸徳川家なかで九代斉昭は、光圀(水戸黄門)と並び広く知られた藩主で多くの業績を残した。光圀が“義公”と呼ばれるように、斉昭は“烈公”と称された。幕政に参加するだけでなく、多岐にわたる藩政の改革も断行(天保の改革)。教育改革では、天保12年(1841)に弘道館の創設、翌年には偕楽園を開園するなどして幕末の激動期に大きな影響を及ぼすことになった。
水戸城址にある弘道館は、薬医門(橋詰御門)とともに現存の建造物である。水戸藩の藩校として、文武両道で藩士やその子弟が修練を積んだ。儒学、歴史、礼儀、医学、和歌、音楽、天文、算学、兵学、剣術、槍、鉄砲、馬術などを広く学べる画期的な学校だった。そのため、江戸時代の総合大学と例えられることがある。
『弘道(こうどう)とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり』で始まる「弘道館記」の内容からもそれがよく分かる。この建学の精神が水戸学の礎を築いたといっていい。そして、尊王攘夷思想を醸成していくことになる。
なお、最後の将軍となった徳川慶喜(斉昭の七男)も幼少期に弘道館で学んでいる。

斉昭は大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立した。勅許を得ずに外国と条約(日米修好通称条約)を結んだことに憤慨した斉昭は、すぐさま江戸城へ登城、井伊直弼を責めたという。結果はご存じの通り、安政5年(1858)からの安政の大獄である。

同時期にできた弘道館と偕楽園は、実は深いつながりがあった。距離も近く、一対の施設として捉えたほうがよさそうだ。弘道館は文武修行の場、偕楽園は心身保養の場として位置付けられていた。偕楽園記の碑文には『一張一弛(いっちょういっし)』という言葉で示されている。弓はピーンと張っていなければ役には立たないが、その力を発揮するために使わないときは弛めておく必要がある……そんな意味合いだろう。つまり勉強(弘道館)だけでなく休養や遊び(偕楽園)の必要性を説いているのである。
弘道館への入学(試験有り)は15歳からで、面白いことに卒業がなかった。ただし、40歳以上になると通学は任意という。
徳川斉昭は弘道館と偕楽園を立ち上げ、江戸時代すでに生涯教育を実践した藩主だった。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

弘道館(正庁) 茨城県水戸市三の丸1-6-29

徳川斉昭はなぜ「梅」を選んだか。

松や桜を植えるのが一般的と思えるのだが、梅を愛し、城内や城下に梅を植え、国(水戸藩)をあげて梅の木を育てたのが九代藩主斉昭である。梅は桜のような賑やかさはないものの、古くから文人に愛されてきた花で、斉昭は少年の頃から親しんでいたようだ。

斉昭が梅に注目したのは、単に梅の花が好きだったわけではなく理由があった。梅干しが軍事食になったからである。同時に、保存食にもなった。領地・領民を守る、戦(いくさ)と飢饉への備えをしたわけである。
このことは、斉昭が残した『種梅記(しゅばいき)』ではっきりしている。「弘道館」や「偕楽園」、領内各戸に梅を植えさせた趣旨が書かれている。弘道館公園内には「種梅記碑(しゅばいきひ)」と呼ばれる石碑が今もあり、経年のため碑文はよく見えないないが、状態のいい拓本が弘道館の中に残されている。漢文で書かれた原文を分かりやすくした説明文の一部を紹介しよう。
「梅の花は春に先がけて咲き、文人たちを喜ばせる。実は酸を含み、喉の渇きを止めて、軍旅に役立つ。備えあれば憂いなし。数年後には領内に美しい花が咲き広がり兵糧も貯えられる…」。
種梅記には、弘道館の周囲には数千株の梅を植えさせたと記されていて、意気込みのほどが窺われる。

偕楽園にも多くの梅を植えた。園内には「好文亭」がある。ここは文人墨客や家臣、領内の人々を招き、詩歌を楽しみ宴を囲む所という。その建物の名前にセンスを感じてしまう。「好文」とは「好文木(こうぶんぼく)」のことで、『大辞林』(三省堂)には「梅の異名。晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に由来する。」とあった。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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