海苔は今でも贈答品として好まれるし、その味も素晴らしい。日本人が海苔を食べるという習慣は、いつ頃からだったろうかと調べてみたら、あまりにも古くて特定できないことが分かった。奈良時代の書物(『常陸国風土記』)にはすでに海苔という言葉が登場している。もともと海産物のひとつとして、海辺の人々は食べていたことを想像すると、太古の昔から日本人は海苔(名称はともかく)を食べていたのではないだろうか。面白いのは、朝廷への献上品として海苔があったことだ(大宝律令701年)。
現在ある海苔の基礎は江戸時代にでき上がった。それは養殖技術が発見され、製法が発展したからである。それまでは自然発生した海苔を採取し単純に乾燥する程度のものだったから、量的にも少なく高価な食べ物だったはずだ。江戸中期以降になると生産量も格段に上がり、現在のような板海苔も登場し、庶民の口に入るようになった。具を入れたごはんを海苔巻きにして食べていたと思われる。
浅草と浅草海苔の関係を探ってみたい。浅草観音の縁起を紹介しよう。隅田川で漁師の網に観音像がかかり(628年)、これをご本尊としてお堂を建て安置したのが浅草観音の始まりだが、あるとき『海苔を食すれば無病開運、海苔は法(のり)なり』というお告げがあった。以来人々は浅草海苔として、大切に扱い食べたという。
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海苔が生育するには、いろいろな条件が揃わないと難しい。川が海に流れ込む場所で栄養分があり、遠浅の海で波が静かであること。それに潮の干満も関係しているという。そんな自然環境が隅田川にあったということだ。
ここでいう浅草の名称は、現在の浅草を含め広範囲の地域をさしている。上野大地の東方をイメージするくらいが正しいとらえ方だろう。当時は、埋め立て地も多く、浅草観音の近くまで海が入り込んでいたはずだ。
時代が進むと、浅草海苔の産地は大森や品川に移っていった。大森は、海苔養殖の発祥の地だ。江戸後期に書かれた『江戸名所図会』には浅草海苔と題し、『大森品川の海に産せり…』と記されている。ここで採取した海苔を浅草などで販売した。江戸中期以降、大森品川は海苔養殖の生産拠点になったのである。
とにかく、江戸の名産品として浅草海苔は人気があった。江戸土産にもちょうど良かった。理由は簡単。軽いこと、保存がきくこと、めずらしいこと、庶民が買えるくらいの値段だったこと。そしてもちろん、美味しかったことである。
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