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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第19回 浅草海苔は、江戸みやげの人気ブランド。
江戸名所図会

『江戸名所図会』
浅草海苔(右側に海苔を干している様子 左の看板には「名物 御膳海苔製所」)

 海苔は今でも贈答品として好まれるし、その味も素晴らしい。日本人が海苔を食べるという習慣は、いつ頃からだったろうかと調べてみたら、あまりにも古くて特定できないことが分かった。奈良時代の書物(『常陸国風土記』)にはすでに海苔という言葉が登場している。もともと海産物のひとつとして、海辺の人々は食べていたことを想像すると、太古の昔から日本人は海苔(名称はともかく)を食べていたのではないだろうか。面白いのは、朝廷への献上品として海苔があったことだ(大宝律令701年)。

 現在ある海苔の基礎は江戸時代にでき上がった。それは養殖技術が発見され、製法が発展したからである。それまでは自然発生した海苔を採取し単純に乾燥する程度のものだったから、量的にも少なく高価な食べ物だったはずだ。江戸中期以降になると生産量も格段に上がり、現在のような板海苔も登場し、庶民の口に入るようになった。具を入れたごはんを海苔巻きにして食べていたと思われる。

 浅草と浅草海苔の関係を探ってみたい。浅草観音の縁起を紹介しよう。隅田川で漁師の網に観音像がかかり(628年)、これをご本尊としてお堂を建て安置したのが浅草観音の始まりだが、あるとき『海苔を食すれば無病開運、海苔は法(のり)なり』というお告げがあった。以来人々は浅草海苔として、大切に扱い食べたという。

右上に続く >

 

 海苔が生育するには、いろいろな条件が揃わないと難しい。川が海に流れ込む場所で栄養分があり、遠浅の海で波が静かであること。それに潮の干満も関係しているという。そんな自然環境が隅田川にあったということだ。
ここでいう浅草の名称は、現在の浅草を含め広範囲の地域をさしている。上野大地の東方をイメージするくらいが正しいとらえ方だろう。当時は、埋め立て地も多く、浅草観音の近くまで海が入り込んでいたはずだ。

 時代が進むと、浅草海苔の産地は大森や品川に移っていった。大森は、海苔養殖の発祥の地だ。江戸後期に書かれた『江戸名所図会』には浅草海苔と題し、『大森品川の海に産せり…』と記されている。ここで採取した海苔を浅草などで販売した。江戸中期以降、大森品川は海苔養殖の生産拠点になったのである。

 とにかく、江戸の名産品として浅草海苔は人気があった。江戸土産にもちょうど良かった。理由は簡単。軽いこと、保存がきくこと、めずらしいこと、庶民が買えるくらいの値段だったこと。そしてもちろん、美味しかったことである。

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
日本中に広がった大森の海苔。
炭俵
べか舟(海苔取り用の一人乗りの小舟)
写真/大田区立郷土博物館 蔵
 大森地域の海苔養殖は、一大産業となってその技術は全国に伝播した。その役目を担ったのは、信州諏訪の海苔商人だった。行商しながら養殖に適した海を探し出した者もいた。海苔の業界に今も諏訪出身者が多いのはこんな歴史があるからだという。しかし東京湾整備のため、昭和38年春をもって海苔養殖は終わりを告げた。
 昭和の初期には、この海面一帯に何百万本という「ヒビ」が立てられていた。壮観な光景だったに違いない。ヒビとは、海苔を養殖する木で、竹(竹ヒビ)が多かった。現在の養殖地では網ヒビを使っている。
 海苔の生産はなくなったが、現在も大森には何十軒もの海苔の問屋が営業している。全国の海苔流通の中枢だ。そして海苔文化を守り続けているのは、大田区郷土博物館を見てもよく分かる。海苔博物館でもあるからだ。
 絶品と称された江戸前の浅草海苔は現在食べられない。まさに絶品となってしまった。残念だが仕方ない。
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