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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第24回 シーボルトは、ほんとうはドイツ人だった。
シーボルトの胸像(東京都中央区築地あかつき公園内/幕末、築地は蘭学交流の場となっていた)
シーボルトの胸像(東京都中央区築地あかつき公園内/幕末、築地は蘭学交流の場となっていた)

日本に西洋医学を伝えた医師の第一人者は、シーボルトと言っていいだろう。彼は文政6年(1823)、長崎出島のオランダ商館付き医師(オランダ人)として日本にやって来た。

鎖国下にあった日本は、原則この出島だけに外国との交流窓口があり、オランダ人の逗留だけが許されていた。とは言っても、自由に出島と長崎市中の往来は許されなかった。それでもなぜかシーボルトだけは例外で、自由に出島を出入りしている。それはきっと、通訳ができたことに加え、長崎奉行(幕府側)も安全な人物として認めていたからだろう。外国の情報を欲しかったという事情もあったし、ひょっとして病気のお役人などは進んだ西洋の医学に基づいた治療を受けたかったのかもしれない。

シーボルトは長崎郊外で「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開き、診療をしながら医学や蘭学を教えた。門下には高野長英がいる。日本人妻との間に生まれた「いね」は産科を父シーボルトから学び、日本の女医さんの第一号となった人として有名である。後に彼女は明治に入ってから、宮内省の医師となったほどの人物である。

オランダ商館長(カピタン)は、将軍に挨拶することが義務付けられていた。これを「江戸参府」と言う。大名の「参勤交代」のようなものだ。出島での通商のお礼のための将軍への謁見で、舶来の珍しい物を献上した。一行にはオランダ人医師としてシーボルトも加わった。長崎から江戸までの旅は、地元の医師の相談にのりながら見聞を広めた。江戸滞在中は日本橋の長崎屋に宿を定められ、そこには多くの医師や蘭学者が訪れてシーボルトから教えを受けている。文政11年 (1828)、「シーボルト事件」が起こる。これは彼が日本地図を海外へ持ち出そうとしたことが発覚した事件だ。軍事上の理由から、日本の地図を海外に持ち出すことを幕府は禁じていたからである。彼は地理や民俗学、動植物学など多分野にわたる研究者でもあった。この研究には当然地図は不可欠なものだった。後年『日本植物誌』を著している。

シーボルトは実はドイツ人の医師だった。つまり、オランダ人になりすまして日本に来たことになる。当時の日本人にその違いなど分からなかっただろうが、オランダ人は当然知っていたはずだ。では、なぜ彼をつれてきたのだろう。それは、西洋でドイツがもっとも医学が進んでいたからにほかならない。西洋医学は蘭学として日本に入ってきたが、その多くはもともとドイツ語の医書をオランダ語に訳した本だったというウラの事情があったからである。

小石川養生所 井戸跡 (小石川植物園内)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
小石川養生所 井戸跡(小石川植物園内)
介護施設は、江戸にもあった

医療や介護は、現代人の重要な関心事のひとつだが、江戸時代すでに社会問題化していた。それは単身者が多かった江戸という都市の成り立ちにも起因している。いったん病に倒れると、看病する人がいなかったのである。

「小石川養生所」が開設されたのは享保7年(1772)。この施設は江戸の町医者、小川笙船(おがわしょうせん)が将軍に提案したものだ。吉宗は、医療や介護に真剣に取り組んだ最初の将軍である。初めての公的な医療・介護施設として貧困者のために開設されたが、治療費や薬代、生活費などが無料だったにもかかわらず、当初は入所希望者が少なく定員に満たなかった。それは町奉行所への手続きが煩雑だったことと、薬の人体実験という噂が立ったためだという。制度や建物を作っても、なかなか上手くいかないのは今も同じだ。

小石川養生所のあった場所は、今は小石川植物園になっている。その面影として、井戸跡、乾薬所、薬園保存園などが残っている。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
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