江戸の三大娯楽はこれが通説となっている。しかし、庶民クラスがそう頻繁に楽しめたかというと、そんなことはない。相撲はまだしも、歌舞伎や吉原などはやはり高額な娯楽だ。実際には、投げ銭程度で楽しめる辻相撲や気軽な芝居小屋、吉原以外の岡場所(幕府公認でない遊郭)だったと推測される。
それはそれとしても、相撲の人気はすごく、江戸市民は熱狂した。上位力士はそれこそスーパースター。「一年を二十日で暮らすいい男」なのである(川柳/10日間×春秋2場所)。
江戸後期、天保10年(1839)の番付を見てみよう。稲妻雷五郎(いなづまらいごろう)は、現代にも名を知られる130勝13敗の名力士である。四股名 (しこな)の上に大関とあるのは、当時は大関がナンバーワンだったのだ。横綱は番付上の最高位ではなく、相撲の家元とされる肥後の吉田家が与えた免許にすぎなかった。現代のような意味で横綱という呼称になったのは明治以降である。稲妻雷五郎も文政12年(1829)に第7代横綱免許を受けているが、江戸時代を通して番付に横綱という文字は見当たらない。
大書きされた「蒙御免」は「ごめんこうむる」と読む。幕府公認の相撲興行という意味である。なぜ相撲に許可が必要になったかというと、江戸市中では方々で相撲が行われていて、勝ち負けのケンカが絶えなかった。お金がかかっているとしたら容易に想像できる。相撲禁止令も出したが効果もいまひとつだった。そこで、勧進相撲(かんじんずもう)というかたちで寺社奉行所の許可制になった。寄進をすすめ、寺社建立や橋架の費用捻出するのが本来の目的である。
「蒙御免」の文字の下には、「11月5日より本所の回向院(えこういん)境内で晴天の10日間、勧進大相撲興業をします」という意味のメッセージが添えられている。勧進相撲は、江戸では富岡八幡宮、浅草大護院(蔵前神社)、芝神明など、寺社奉行所管轄である寺社の境内で行われたが、後に本所回向院に集中し、天保年間(1830~1844)には、この番付にあるように本所回向院に定まった。そして明治43年(1910)、両国国技館が完成するまで続いたのである。
相撲は古代から行われてきた神事であったことが興味深い。朝廷の行事にも節会相撲(せちえずもう)があったし、神社での奉納相撲は現代にも引きつがれている。これらは五穀豊穣を祈る儀式だった。現代の相撲でも、力士が懸賞金を受け取るときの礼儀として、3回手刀(てがたな)を切るのは、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の日本神話の根元神に感謝していただくという意味がある。
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