18世紀に入ると、家康の入府時に30万位だった人口も100万人を突破していた。100年余りで3倍以上の急増ぶりである。幕府開設より幕藩体制は着々と強固なものとなって、年貢米は全国から江戸に集まり、米は豊富に市中に流通した。ここで忘れてはならないのが、他の食べ物はどこから来たのだろうかということだ。まさか人間、米だけで生きていけるものでもないだろう。
魚介類は、江戸前と言われるように海がすぐそこまで来ていたので、そう不自由はしなかったと思われる。野菜類はやはり、近郊農家に頼る他なかった。ということは、江戸中期以降、100万人分もの野菜の需要を近郊農家で賄っていたことになる。この生産量は相当なものだ。江戸という大都市は、人口が膨れ上がるにつれて、農民を近郊に呼び寄せた。農民は米ばかりを作っていたわけではなく、貨幣獲得のためにも野菜を作ったのである。幕府も早くから近郊農村に商品作物の栽培を許可し、野菜づくりや草花の栽培を奨励した。また、新田開発にも力を入れた。新田は当然生産量が低いので、年貢を免除する入植振興策をとった時代もある。新田は江戸の西側の「武蔵野」、北側の「王子」方面、東側の「葛飾、足立」方面などに作られた。特に深川の東側にあたる砂村新田は、江戸初期から盛んに埋め立てが行われ、開拓が進められた場所として知られている。
江戸近郊では、野菜をはじめ、園芸用や観賞用の草花が盛んに栽培されていた。この図会は、武蔵国葛飾郡葛西領(江東区葛西の辺り)の農家の庭先の様子を表したもの。家の周りや田圃の畦道(あぜみち)にもことごとく四季の草花を植えて、開花したら大江戸の市場に売っているという説明が添えられている。
野菜もそうだが、草花も需要が高かったのは、ちょっと驚きである。花を観賞する美意識は現代以上のものがあったのかもしれない。江戸城や武家屋敷、有力商家では大量の草花が消費された。長屋住まいの者も、軒下では朝顔のような花を楽しんでいたのである。
江戸の具体的な野菜をラインアップしてみよう。だいこん、ねぎ、にんじん、なす、ごぼう、わさび、ゆず、しそ、ほうれん草、うり、ひょうたん、ふき、れんこん…今とほとんど変わっていない。現在の地名にその名残がある例も少なくない。小松菜(江戸川区小松川)、練馬大根(練馬区練馬)、茗荷(文京区茗荷谷)、谷中生姜(台東区谷中)…。野菜から地名が、地名から野菜が連想されて面白い。
野菜は青物(あおもの)と呼ばれ、青物市場は、千住、駒込、神田、日本橋などにあった。毎日毎日、東からは船で、西からは馬や荷車で、100万人の江戸市民に向けて運び込まれたのである。
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