こんな唄で当時の屋形船はもてはやされた。暑い時季、江戸市民は隅田川に好んで出かけた。武士も庶民も男も女も暑いのはみな同じ、隅田川は涼をとるには恰好の場所だ。いろいろな船遊びもできるし、花火も楽しめるし、川岸には茶屋や出店も多かった。
船遊びはかなり粋でおしゃれな遊びだったと思う。屋形船は、納涼船として活躍した。「のうりょうせん」でなく、江戸の話なので「すずみぶね」と読んでいただきたい。この絵の屋形船の光景は豪勢だが、ここまでいかなくても、一般庶民も船の大きさや遊びの内容は違っても、十分楽しめた。その証拠に当時の多くの図会には相当数の大小の船が川面に浮かび、楽しむ人々が描かれている。
屋形船は江戸時代に登場した。江戸後期の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』によれば、慶長年間(1596~1615)に、評定所(ひょうじょうしょ)から命じられて吉原では、遊女を給仕に召し出すことがよくあり、その道中は必ず船を用いた。夏の炎天のときなどは、か弱き遊女には難儀ということで、その船に屋根を作って簾(すだれ)をかけたのが始まりという。そのさまが涼しげで風流だったことから、これを真似て屋形船が造られるようになった。
評定所は本来、寺社奉行・町奉行・勘定奉行や老中が集まる所で、内閣と最高裁判所を合わせたのような役所である。そんなお堅い役所でまた何で吉原から遊女を出張させたのだろう。老中も奉行もみな男だから分からなくもないが…。ただ当時の高級遊女のとらえ方は、高貴で、芸に秀でたスーパースターであったことも事実である。
時代が経つうちに屋形船は納涼船(すずみぶね)として流行した。大名などは大勢のお供を連れて船遊びをするために、次第に大きく華美になっていく。船の長さが九間あるから「山一丸」、十間あるから「熊一丸」というふうに大きな屋形船もあった。(一間は約1.8メートル、山一は八間一、熊一は九間一の洒落である。)
この流行も明暦3年(1657)の大火で一端はストップ。それは、大火後に必要な建築資材の運搬用の船として造り変えられたからである。しかし数年して江戸の町が立ち直ると、以前にも増して屋形船は一層流行し、さらに装飾にも金銀をあしらい、贅沢なものとなって巨大化した。延宝年間(1673~1681)には大屋形船二艘を大きな板で繋げて舞台をつくり、「踊り船」を建造した例もある。幕府は度々屋形船に関して禁令を出している。元禄(17世紀末)の頃には、屋形船は大きさや数も制限され、豪華なものはもうなく、大名は所有さえも許されなかった。そうして、船宿や料理屋が所有する比較的小さな屋形船だけが後世に残ったのである。
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