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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第43回 酉の市の謎と、洒落づくしの面白さ。
『東都歳事記』浅草田圃 酉の市  はるをまつ 事のはじめや 酉の市 其角
『東都歳事記』浅草田圃 酉の市  はるをまつ 事のはじめや 酉の市 其角

毎年11月の酉の日に行われているお祭が酉の市。何を願い何を祝う祭なのか、なかなか一言で説明しにくい行事である。それに「祭」がなぜ「市」と呼ばれるのかも気にかかる。酉の市は、花又村(足立区花畑)や浅草といった江戸近郊に当たる地域が発祥の地である。村と町の人々が品物を持ち寄る交流の場でもあった。村からは農具である熊手(くまで)や里芋の一種である八つ頭(やつがしら)。町からはかんざしや衣類などが持ち込まれた。正月の支度をする市が立った。今でも八つ頭はお正月料理に欠かせない縁起の良い食材となっている。この市は、寺社の境内はもってこいの場所だった。やがて神社の祭神と結びつき「武運長久を祈る祭」の側面を持つようになる。平和が続く江戸中期には「開運招福・商売繁盛」という性格の祭になり、酉の市はますます盛大になっていった。


酉の市は毎年11月の酉の日に関東の20カ所以上の寺社で今も行われている。鷲(おおとり、とり、わし)、大鳥(おおとり)の文字を冠する神社が多い。酉の日は、一日一日に十二支を配置している関係(子の日、丑の日、寅の日…)で、12日で一回りする。したがって、11月の1カ月間には2~3回の酉の日があることになり、順に一の酉、二の酉、三の酉と呼ぶ。2006年は、一の酉が11月4日、二の酉が16日、三の酉が28日。俗に「火事や異変が多い」というのは、この三の酉まである年を指している。もちろんこれは俗信で、筆者は一応調べてみたがそういう傾向はない。


この盛況な酉の市の陰には、江戸人の洒落心と知恵が巧妙に仕掛けられている気がする。熊手は“福をかき集める”“福をとり(酉)込む”という意味。八つ頭は“八人の頭になる”つまり人の上に立ち出世できる食べ物であるとされる。またそのコブがいくつもついたような形状から“子宝に恵まれる”ともされた。他に酉の市に欠かせない重要なものは粟餅(あわもち)。粟の実の色は黄色、これを搗(つ)いて餅にして黄粉をかけたのだろう。その色から別名、黄金餅(こがねもち)。“金持ちになれる”と縁起をかついだ。熊手はだんだん派手になり、稲穂や米俵を模したもの、お多福の面、宝船に大福帳、大判・小判に千両箱…縁起もののオンパレードとなった。


祭と市の関係については、…集落がある程度の町に膨張していく過程で、人口の増加に伴い祭という行事が発生する。それは寺社を核とすることが多く、祭が町を形成した。町の語源は祭にある。人口が増えると市が立つ。だから市は町とも密接な関係だ。「まつり」「まち」「いち」は同じ根っこを持つ言葉であり、ほぼ同義と考えていい。酉の市が酉の祭や酉の町とも呼ばれる所以(ゆえん)である。

浅草・鷲神社 (酉の市には毎年数十万人の人が訪れる)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
浅草・鷲神社 (酉の市には毎年数十万人の人が訪れる)
日本一の酉の市、浅草・鷲神社。

酉の市といえば、浅草の鷲神社を指すことが多い。江戸時代から続いている最大規模の酉の市である。今も人出がものすごい。江戸時代から盛況だったのは東側に吉原があったという理由もある。吉原の出入り口は鷲神社とは反対側の大門(おおもん)に限られていたが、この日に限り西側の門を開けて自由に通行できるようにした。遊郭も千客万来を願い、遊女にも参拝を奨励している。
ところで、熊手の買い方は初めての人はなかなか難しい。何しろ値段の表示はどの店にもない。値切りながらの交渉になる。これを楽しめるようになれば一人前?だ。商談成立後お金を払う際、値切った金額分(あるいはキリのいい金額)を祝儀としてまた払うこともあるようである。それじゃ同じことじゃないかとも思うが、そこが江戸っ子の粋なところというわけだ。買った人は熊手を抱えて直立、売手は開運招福の口上を高らかに述べ、威勢のいい手締めとなる。この瞬間がまさに酉の市である。

文 江戸散策家/高橋達郎
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