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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/金龍山浅草寺、三省堂
コラム江戸
第45回 節分には、なぜ豆まきをするのだろう。
『江戸名所図会』節分会 (浅草寺は豆の他にお札もまいた)
『江戸名所図会』節分会 (浅草寺は豆の他にお札もまいた)

これは、浅草寺の節分会(せつぶんえ)。テレビのニュースなどで賑やかな節分会の風景は、今も昔も変わりない。当時浅草寺は先進的なお寺だったらしく、大がかりな節分会を行ったのは、関東で最初だったと伝えられている。浅草寺に倣って豆まきの風習がだんだん江戸庶民に広まったのは、江戸の中期以降のことだ。

豆まきの行事は実際は古くから行われており、「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」と呼ばれた。この難解な言葉を辞書『大辞林』(三省堂)で引いてみれば、「ついな【追儺】悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事。平安時代、宮中において大晦日に盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。古く中国に始まり、日本へは文武天皇の頃に伝わったという。節分に除災招福のため、豆を撒(ま)く行事は、追儺の変形したもの。鬼やらい。」とある。
つまり、最初は宮中の行事だったものが寺社でも行われ、やがて一般化したものと思われる。大晦日とあるのは、旧暦(太陰太陽暦)の関係で、立春が正月に当たるからである。
節分は字が示すように季節の分かれ目で、立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日を指す。もともと年に4日あったことになるが、立春の前日だけが残ったのは、厄を払って新年を迎えるという別格の節分だったからだろう。

ではなぜ、まくのは豆なのか。他の物ではいけないのだろうか。基本的には、大豆を炒(い)ったものを使用することになっている。「マメに暮らすため」とかいうのは都合良すぎはしないだろうか。
米や小豆は、ちょっと小さすぎて投げにくい。鬼をやっつけるには迫力に欠ける。小石を投げるという手もあるが、これだと障子が破れたり物が壊れるので具合が悪い。それ以前に、大豆のような貴重な食べ物を投げてしまって良いのかという素朴な疑問も残る。
大豆は、「畑の肉」と言われるほど栄養価の高い食べ物であることは当時も知られていたはずである。食べ物を投げるという行為は、どうしても日本の文化や日本人の精神構造として、そぐわないような気がしてならない。まいた後、拾って食べれば良いという合理的な考え方もあるにはあるが…。

『古事記』には、イザナミノミコトが鬼に桃を投げる場面があるそうで、鬼は桃が苦手だったらしい。その時の桃は熟した桃だったのか桃の種だったのかは分からない。中国では古くから、桃には鬼を退治する霊力があると考えられていて、それが伝わったようだ。鬼ヶ島に鬼退治に出かけた昔話、『桃太郎』も桃だった。この桃が時代を経て、現実的に入手しやすい大豆に転化したとの説もある。

節分札(信徒に授与される/御守授与所でも販売)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
節分札(信徒に授与される/御守授与所でも販売)
浅草寺の節分会は『福は内』。

浅草寺では『鬼は外』とは言わないのだそうだ。観音様の前には、もともと鬼などはいないから言う必要がないとの考えからである。『福は内』で十分なのである。
『江戸名所図会』では、「お札まき」の様子を紹介している。「豆」も「お札」もまいたが、現在は豆だけだ。
写真は現在のお札。内容は江戸時代と同じである。当時は本堂外陣の柱に登り、お札を大きな団扇であおいで遠くへ飛ばしながらまいたようである。その数は三千枚ほど、二枚揃ってはじめて意味があるお札のため、群衆の中でかなりの争奪戦が繰り広げられたという。
人々はこのお札を家に持ち帰り、鬼(病気や災い)が家に入らないよう玄関に貼った。家の中から外に向かって左側に「節分」のお札、右側に「立春」のお札を向かい合わせに貼るのが決まりだ。節分の「分」という字をよく見ると「」。人の下は「刀」でなく「力」だ。安産のまじないでもあった。何となく気持ちは分かる。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/金龍山浅草寺、三省堂
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