Home > 江戸散策 > 第57回

江戸散策
江戸散策TOP
前回のページへBACK
次回のページへNEXT
江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第57回 季節を知るための暦、二十四節気。
『二十四節気』一気はほぼ15日間になる(中央標準時の数字は国立天文台 暦計算室発表による

『二十四節気』一気はほぼ15日間になる
(中央標準時の数字は国立天文台 暦計算室発表による

図01

江戸時代の人々は、旧暦(太陰太陽暦)のなかで暮らしていた。今のような新暦(太陽暦)を使い始めたのは、明治6年(明治5年12月3日を新暦6年1月1日とした)からである。二つの暦の違いは、地球に対する月の運行を基本にするか、太陽の運行を基本にするかである。この改暦は明治政府が日本中に新しい約束事をする、大事件だった。日本人は千年以上も使ってきた太陰暦をやめ、突然太陽暦を使うことになったのである。もちろん初めての経験だったが(太陰暦での改暦は何回か行われてきた)、当初は混乱もあったものの次第に定着した。日本人の進取の精神と受容性の高さには驚く。日本は西洋諸国に倣いアジアで最初に太陽暦を採用した国である。
新暦は確かに便利な面も多かった。月日と季節が一致するからである。旧暦ではそうはいかない。月の周期を積み上げて1年を構成しても1太陽年と合わないのは明らかである。この不便さを少しでも解決しようと考え出されたのが「二十四節気」や「閏月(うるうづき)」である。月日が分かっても季節が漠然としているのは困るため、旧暦では一種の季節のカレンダーのような「二十四節気」を用いた。旧暦の弱点を補う工夫といってもいい。その名称も実に風雅であるばかりか季節の意味を含んでいて、具体的な行動を教えてくれる便利なものだ。

「二十四節気」は、旧暦では冬至を基点として1年の長さを24等分し、表に示したようにそれぞれに季節感のある名前がついたものである。つまり、地球からみた太陽の軌道(黄道)を24分割し、地球が太陽を一周して再び冬至点にくるまでを1年とした。節気を春夏秋冬に6つずつ配置し、節気(せっき)と中気(ちゅうき)を交互に配置した。別のいい方をすれば、黄道を12等分した地点を中気といい、中気と中気の中間点が節気である。中気を設ける理由は、月名を決める際に必要で、各月には必ず中気が入るという原則があったからだ。上の表では、二十四節気と月の関係がそのまま一致するかに見えるかもしれないが、分かりやすくするために便宜上標準的な配置をして示していることをご理解いただきたい。
「閏月」は、旧暦の大きな特徴だ。旧暦は月の朔望(さくぼう)、満ち欠けを基準に置いている。月の満ち欠けの周期(一朔望月)は、29.5306日(実際には29日と30日ある月を配置)。これを1カ月として、単純に12倍して1年とした場合でも約354.0432日となり、一太陽年である365.2422日には約11日間足りない。このずれの辻褄(つじつま)を合わせるために閏月が暦に挿入された。したがって、3年に1回くらいは、1年が13カ月ある年が出てくるのである。新暦2008年2月29日も似たような現象と思えばいい。こちらは「閏日」を1日分付け足して、0.2422日分を4年に1回ずつ帳消しにしている。旧暦は、月(太陰)だけを基準にしたものではなく、太陽の運行にも意識し、季節にできるだけ合わせようとした暦である。だから旧暦を太陰太陽暦というのである。

現代人は、旧暦のなかで暮らす江戸の人々はずいぶん不便だっただろうと思うかもしれないが、そうでもなさそうだ。日にちを知りたければ、月の欠け具合を見ればだいたい判明するし、季節を知りたければ「二十四節気」で事足りる。農事で何をするときか、どんな花が咲くときか、どのように気温が変化し自然現象が起こるときかを知ることができたのである。
旧暦には旧暦の素晴らしさもあったことを忘れてはならないと思う。当時は不便を感じたはずもないし、日本古来の知恵であり文化でもあった。情緒的な意味合いにせよ「二十四節気」が今も引き継がれているのはその証拠だろう。旧暦を使っていた時代は、現代のような時間と闘うような社会ではない。人々は現代人よりもはるかに季節に関心をもち、季節を感じ、季節がもたらす恩恵を享受していたと思われる。

『雑節』 二十四節気以外の季候が変わる目安となる日
ちょっと江戸知識 コラム江戸
『雑節』
二十四節気以外の季候が変わる目安となる日
季候を表し、伝統行事となった雑節。

「雑節」も「二十四節気」と同じように、季節を知るために設けられた暦日である。二十四節気はもともと中国から伝えられた暦法であり、黄河流域(下流)の季候に基づいてつくられているため日本の気候と少しずれを感じるが、雑節は日本的な生活習慣や文化も加わって行事として定着したものが多く違和感はない。
土用は年に4回あるが、今は夏の土用を指すことが一般的になった。夏の土用の丑(うし)の日にうなぎを食べるようになったのは江戸時代からの習慣である。
彼岸は春分の日・秋分の日を中日(ちゅうにち)としてそれぞれ前後の3日間をいう。仏教用語である彼岸(ひがん)は、彼(か)の岸(きし)という意味で、此岸(しがん)に対比される言葉。迷いや煩悩の多い此岸から到達点である彼岸へ行くための法会(ほうえ)が「彼岸会」である。彼岸には先祖の供養をし墓参する。そのため彼岸は仕事を休むという習慣が古くからあった。江戸時代、休みの代表は盆と正月。この中程に春分と秋分の休みを入れたのはなかなか頭がいい。これは現代の国民の祝日として残った。ところで彼岸に食べる餅の名称は、春は「ぼたもち」、秋は「おはぎ」と使い分けるのが正しい。しかし餅自体はまったく同じものである。春に牡丹(ぼたん)が咲き、秋に萩(はぎ)が咲くという理由である。日本人の感性に拍手したい。

文 江戸散策家/高橋達郎
BACK 江戸散策TOP NEXT
page top