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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第58回 貴重な蝋燭は、リサイクルもする。
『岡場所錦絵 辰巳八景ノ内』 香蝶楼国貞 (遊郭で使うぶら提灯は通常より大きい。後ろは高張提灯)
出典:国立国会図書館貴重書画データベース

『岡場所錦絵 辰巳八景ノ内』 香蝶楼国貞 (遊郭で使うぶら提灯は通常より大きい。後ろは高張提灯)
出典:国立国会図書館貴重書画データベース

提灯(ちょうちん)は蝋燭を用いる照明器具である。蝋燭は明るく、夜間の外出時には、当時もっとも理想的な照明器具であったことは間違いない。ただ問題なのは蝋燭の値段が高かったことだった。江戸初期はもちろんだが、後期になってもそれほど生産量が上がらなかったため、庶民が気軽に買えるものではなかった。提灯があっても蝋燭がない、なんていうこともあっただろう。それでもその明るさと便利さから、時代が下るにつれてだんだん普及するようになる。
確かに蝋燭はずっと昔から使われていた。蝋燭は仏教伝来とともに日本に伝わったといわれているから歴史は古い。奈良・平安の時代には宮中や大寺院では使われていたが、それらはみな中国からの輸入に頼っていたものだ。庶民とは無縁の時代が続いていた。

日本で蝋燭をつくれるようになったのは室町後期といわれ、本格的な生産が始まったのは江戸時代である。当時日本で作られた蝋燭は和蝋燭(わろうそく)に分類されるもので、原料は櫨(はぜ)の木の実を搾(しぼ)って精製して作られた。複雑な製造工程は説明しづらいが、実から搾り取った木蝋(もくろう)を火で溶かしたり、天日に干したり、灰汁(あく)を混ぜたりで、重労働であり技術が必要で手間もかかった。紙を棒状にした芯に、溶けた蝋を塗り重ねてだんだん太くしていくのも気が遠くなる作業である。農家で櫨の木を植えるのは広まったが、原料が増えても製品になるまでが大変だった。蝋燭が貴重で高価なものになったのは当然である。

戦国時代を舞台にした歴史ドラマに、蝋燭や提灯のシーンがあまり登場しないのは、まだ蝋燭が普及していないためである。夜中の行軍は松明(たいまつ)であり、陣中ではかがり火ということになる。蝋燭は殿様や大名クラスは使っただろうが、下級武士や農民などは気軽に使えるはずもない。では何を使ったのかといえば、菜種や鰯(いわし)の油などを燃料とした行灯(あんどん)。漢字が示すように行灯は外出用の照明器具だった。室内で使用するようになったのは、蝋燭がだんだん安くなるにつれて提灯が普及したからである。
提灯をよく用いたのは、大名や旗本、商家や遊郭、料亭など、つまりお金持ちである。あとは商売用だ。庶民も必要に応じて使ったが、それはそれは大事に使ったようである。

値段が高く貴重な蝋燭はリサイクルもされた。すぐにピンとこないかもしれないが、蝋燭に火を灯して使うと下に蝋が溶けて流れるが、これを集めてまた蝋燭を作った。今風にいえば、使用済み燃料の再利用である。「蝋燭の流れ買い」という商売が成立し、町々を歩いて流れた蝋を量って買っていった。江戸の人々は、何でも使い回し無駄にすることなく使い切る感覚をもっていた。流れた蝋には「蝋涙(ろうるい)」という美しい名前が付いている。

船宿 相模屋の八間  (深川江戸資料館)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
船宿 相模屋の八間  (深川江戸資料館)
季候を表し、伝統行事となった雑節。

これはどこかで、いつか見たことのあるような照明器具だ。そういえば、昔はどの家庭にも天井から吊してあった蛍光灯を思い出す。懐かしいあの蛍光灯のルーツは、このような江戸時代の照明器具にあるのかもしれない。
この照明器具は「八間」と呼ばれるものだ。周囲八間を照らすからこんな名前がついたのだろうか。この光源で一間(約1.82メートル)の8倍の距離まで照らすのはどう考えても無理に思えるが、四方八方を照らす八間は、そのくらい明るかったということにしておこう。なお、この写真では四角形だが、八角形のものもある。
八間は木の枠で組んだものに障子紙のような紙を貼ったもので、中心に油皿を吊した簡単な構造である。この素焼きの油皿に菜種油や魚油を入れ、灯心(いぐさを用いた)をひたして点火するものである。
どんな場所で使用したのかというと、料理屋、湯屋(銭湯)、船宿など人が大勢集まる所。行灯(あんどん)が手元・足元を照らすのに対し、八間は部屋全体を明るくしてくれた。防火上、大勢の人がいても躓(つまづ)いて倒す心配もない。行灯の天井版が八間である。天井から周囲を照らす八間は、江戸時代のシャンデリアのようである。

文 江戸散策家/高橋達郎
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