「花見だぁ、花見だぁ」と騒ぐのは、どうやら日本人だけらしい。美しい花を観賞するというのは古今東西どこにでもあるが、仮に花見を「屋外の桜の下で複数の人が一緒に飲食する」と定義しただけでも、それはもう日本だけのことになりそうである。
この日本特有の花見風俗は、江戸時代にしっかりと根をおろした。江戸時代以前から花見という風習はあったが、太平な世の中になってだんだん広まったといえるだろう。精神的にも経済的にも、そこそこ余裕がないと花見などは楽しめるものではない。元禄の景気のいい時代を通して享保年間(1716~1736)には、一般庶民、老若男女が普通に花見を楽しむようになった。
花見が大衆化していくには、まず桜の木がなくては話が始まらない。江戸の花見文化に大きく貢献したのは8代将軍吉宗。江戸や江戸近郊に桜の木がもともと数多くあったわけではなく、それらはみな植樹したものだ。吉宗は隅田川東岸の向島(むこうじま)、この浮世絵に描かれた王子の飛鳥山(あすかやま)、小金井の玉川上水沿いなどに桜の木を植えた将軍として知られている。その場所は、江戸の桜の名所として有名になり浮世絵の題材にもなって、多くの人が押し寄せる花見スポットとなった。大名も下級武士も、町人も長屋の住民も胸をおどらせて春の行楽に出かけたようである。
今もこれらの場所で私たちは花見ができる。吉宗将軍に感謝したいところだ。とはいっても、桜がそのまま残っているわけではない。後年もこの地に次々に桜が植えられたからである。しかも現在の桜はこの時代の桜と品種が違う。当時の桜は「山桜」や「エドヒガン」と呼ばれる野山に自生していたものだ。現在は「染井吉野」が主流になった。この品種は江戸後期に染井村(現在の豊島区)の植木屋が品種改良して売り出したもので歴史はまだ浅い。ただ、成長が早く花も大きく美しいのでどんどん広まって現在に続いている。
花見のルーツは奈良・平安の宮中行事にあるとされている。歌を詠みながらの桜の遊宴は、さぞ格式の高い花宴だったことだろう。吉田兼好(鎌倉時代)は徒然草のなかで『花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは…』と述べ、満開以前の桜や満月以前の月こそが美しいという高尚な花見観、月見観をもっていた。
飛鳥山の花見の主役は江戸庶民である。桜の咲き具合など、そんなのカンケイナーイのである。この浮世絵のように桜が咲いて、飲んで歌って踊って大騒ぎすればそれでいい。飛鳥山ではそんな花見が許されていた。女性が男装したり殿様になったりコスプレもOK。「茶番」と呼ばれる寸劇を演じる者もいる。日頃のウサ晴らしをしてお互いに親交を深め合ったのだった。また、花見は男女の出会いのチャンスでもあったようで、女性は花見用の着物を誂(あつら)えたり、朝早くからお弁当をつくって、おめかしして出かけた。現代の花見も江戸時代とさほど変わっていないような気もするのだが…。
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