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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/宝田恵比寿神社 べったら市保存会
コラム江戸
第63回 「べったら市」は、恵比寿講から生まれた
べったら市 宝田恵比寿神社 (中央区日本橋本町3-10-11) 平成19年10月20日撮影
べったら市 宝田恵比寿神社 (中央区日本橋本町3-10-11) 平成19年10月20日撮影

べったら市とは、べったら漬けの市が立つお祭りだ。ところで、べったら漬けとはいったいどのような漬け物だっか記憶がはっきりしない人が多い。周りの人に聞いても、名前は知ってはいるけど、食べたことがあるような、ないような、関西のダイコンの漬け物の名称かな?なんていう人もいて、どうもおぼつかない。若い世代に至っては知らない人がほとんどだった。
米麹で漬けた浅漬けのダイコンがべったら漬けである。ダイコンに甘酒をまぶしたような感じで、漬けたダイコンのサクサクした歯触りとともに心地よい甘味が口の中に残る。見た目も真っ白で涼しげである。べったら漬けは現代人にとっても、かなり美味しい食べ物だと思う。今あまり食べなくなったのが不思議なくらいだ。

べったら漬けはデパ地下でも買えるだろうが、恵比寿講のべったら市で買うのも風情があっていい。毎年10月19日・20日、日本橋宝田恵比寿神社の恵比寿講に行けば、神社周辺で開かれるべったら市で誰でも気軽に買える(神社への参詣もお忘れなく)。恵比寿講はお祭りであり夜店も出るので夕方出かけるのがおすすめ、毎年多くの人で賑わっている。江戸後期にはもうここでべったら市が開かれていたということから考えると、ここのべったら漬けが正真正銘、正統なべったら漬けということになりそうである。
そもそも“べったら”とは何を意味しているのかと気になって、神社からいただいた案内書を見れば、『…若者により浅漬けダイコン(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ、婦人たちをからかったことから、べったらの呼び名になったと伝えられている』とある。他にもべたべたするからべったら漬けというもっともらしい説もあるが、こちらはイマイチ面白さに欠ける。祭りでの江戸っ子のたわいない悪ふざけは容易に想像できるので、べたべたするべったら漬けを着物に漬ける振りをして女性をからかったということにしておこう。

恵比寿講は七福神の一人、恵比寿(=恵比須、愛比寿、蛭子、夷)の祭りで江戸の人々の信仰は厚かった。大きな鯛を釣り上げ抱えている姿から、漁業や海の神様であり商業の神様、福の神様でもある。江戸の商家では商売繁盛を願って恵比寿神を祀り、恵比寿講と称して宴会を開いた。天保9年(1838)刊行の『東都歳事記』には、親戚、縁者、奉公人、お得意様などを招いて酒と料理でもてなし、無礼講のどんちゃん騒ぎをする商家の様子が詳しく紹介されている。
恵比寿講は年に二回、1月20日と10月20日が当てられている。10月のほうが盛んだったのは、収穫への感謝の意もあったのだろう。供え物も豊富に出揃う。そのなかには当然ダイコンもあり、恵比寿講のべったら市へと続いているのである。10月は神無月(かんなづき)、神様がみな出雲に行って留守になる月も、恵比寿神は恵比寿講があるためそうもいかず忙しい。例外的な神様である。

 
恵比寿神(宝田恵比寿神社)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
恵比寿神(宝田恵比寿神社)
運慶作、えびす顔の恵比寿様。

初めて訪れる人はきっとこの神社の小さいことに驚かれるだろう。道路に面して鳥居が建ち、そのすぐ先は社(やしろ)で敷地は狭い。注意して歩かなければつい見逃してしまいそうなスポットだが、商売繁盛、家族繁栄、火防(ひぶせ)の守護神として今も昔も関東一円から崇敬者を集めている神社である。日本橋七福神の一つでもあり参詣者は多い(地下鉄日比谷線小伝馬町から徒歩3分)。
宝田恵比寿神社の御神体は名前の通り恵比寿様である。神社の縁起書によれば、この木像は徳川家康から賜ったもので鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられている。このような神社が日本橋にあるわけは、この地域(江戸初期の大伝馬町、小伝馬町)の成立過程をみると判明してくる。
大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町(京橋)を三伝馬町というが、これらの町は慶長11年(1606)の江戸城拡張のため、宝田村、千代田村、祝田村がそれぞれ移転してできた町である。村の鎮守だった宝田神社も一緒に移転し、前後して家康から恵比寿像を賜り宝田恵比寿神社になったものと考えられる。三つの村は開府当初から幕府の荷物の輸送(御伝馬方)を任されていた。移転後も幕府の荷物の輸送(無料)、諸大名や町人の荷物の輸送(有料)の特権が与えられ、全国の街道への人馬の手配を請け負う保護された特別な町だった。
大伝馬町が別格だったのは、天下祭といわれた神田祭の様子をみても明らかである。繰り出される三十六台の山車(だし)の順序は「一番、大伝馬町」と決まっていた。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/宝田恵比寿神社 べったら市保存会
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