春の七草の名前を全部いえる人はどれくらいいるだろう。一つの草にもいろいろな呼び方があり、なかなか覚えられないというのが正直なところだ。そこで、写真とともに簡単な説明を加えたい。
「芹(セリ)」…川辺や湿地に自生、せり合って生えるのでセリ。
「薺(ナズナ)」…別名ペンペン草、三味線のバチに似た実がつく。
「御形(オギョウ)」…古名は母子草(ハハコグサ)、草餅に入れた。
「繁縷(ハコベラ)」…別名ハコベ、小さな白い花を咲かせる。
「仏の座(ホトケノザ)」…葉の形が仏様の座る蓮華座に似ている。小鬼田平子(コオニタビラコ)、田平子(タビラコ)ともいう。
「菘(スズナ)」…蕪(カブ)。「蘿蔔(スズシロ)」…大根(ダイコン)。
この七草の覚え方をご紹介しよう。こんなときは普通、室町時代の学者・歌人である四辻善成(よつつじ・よしなり/1326-1402)が『河海抄(かかいしょう)』のなかで詠んだとされる(異説もあり)和歌が引き合いに出される。『河海抄』は源氏物語の注釈書である。
その和歌とは、「せりなずな おぎょうはこべら ほとけのざ すずなすずしろ これぞ七草」。…なんだ、ただ並べただけじゃないかと思う向きもあるが、ちゃんと“五七五七七”の体裁を整え、それなりに面白く覚えやすいのではないだろうか。
七草粥の風習がいつ頃から始まったのかは諸説ある。平安時代に中国から伝わった風習ともいわれているが、どうもこれは史実ではないらしい。はっきりしているのは平安時代の宮中では、それらしきものを食べる儀式があったということである。それも粥ではなく羮(あつもの)、スープ状のものだ。その草の種類も数もこんにちのものとは違っていただろう。春の草は七草のほかにも数多くあり、セリなどは確定できるものの、名前も時代による呼称の違いがある。“春菜、若菜”のような言葉が登場する『枕草子』『土佐日記』など、残された史料を総合してみても不明な点が多いとされている。
草のスープなど美味しいとはとても思えないが、国の安泰と豊穣を祈り邪気を祓う儀式が宮中にあったことは興味深い。
草を粥に入れるようになったのは時代がずっと下って鎌倉・室町時代以降と推測され、七草粥として草の種類も決まり一般庶民の行事として根をおろしたのは江戸時代だと思われる。それにはあるキッカケがあった。江戸幕府が「1月7日人日、3月3日上巳(じょうし)、5月5日端午、7月7日七夕、9月9日重陽(ちょうよう)」の「五節句」を定め、年頭の人日の節句が重要な式日となったからである。江戸城でも武家屋敷でも儀礼として正月七日に七草粥を食べるようになり、庶民に一気に広がっていったのである。七草の食材は容易に入手できるものばかり、江戸庶民もこれに倣った。
一年病気にかからないよう願って、春の七草を神前に供えてから食べるという風習は単なる行事ではなく、家族の楽しみや遊びであり、コミュニケーションの場だった。みんなで草を摘み、数え唄を歌いながらまな板の上でトントントンと七草を刻む。家族揃って七草粥を食べる。庶民の正月の心温まるシーンである。
百人一首には、次のような光孝天皇の優雅な歌も選ばれている。「君がため 春の野に出でて若菜摘む わが衣手に雪はふりつつ」…あなたのために摘む若菜とは、いったいどんな草だったのだろう。 |