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コラム江戸

疱瘡(ウイルス感染症)と太田姫稲荷。

太田姫稲荷神社 (千代田区神田駿河台1-2) 天水桶の太田道灌の紋(丸に細桔梗紋)が美しい。

神田駿河台、大学・専門学校や病院、大手企業のビルが建ち並ぶ一角に興味深い由緒をもつ稲荷社がある。昨今の新型コロナウイルス感染症の動向が気になるところだが、これに関連して、太田姫稲荷神社の縁起に目を向けてみたい。特徴的なご利益として挙げられるのは、疱瘡が治癒するというものである。

 

疱瘡とは天然痘のことで、天然痘ウイルスの感染によって引き起こされる。厚労省のホームページには「感染経路/飛沫感染によりヒトからヒトへと感染する、症状/急激な発熱(39度前後)、頭痛、四肢痛、腰痛などで始まる」とあり、今回のウイルスとどこか似ているような…。しかし、安心していい。天然痘は「現在地球上にこの疾患はない」とある。人類はこのワクチンを手に入れたからだ。WHOは1980年5月、天然痘根絶宣言を出している。

 

古くからある疱瘡は、江戸時代にも最も恐れられた病気の一つ、感染力が強く致死率も高かったから太田姫稲荷神社には疱瘡を恐れて多くの人が参拝に訪れたことだろう。
太田姫稲荷神社の創建は室町時代、長禄元年(1457)、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いた頃のことだ。境内にある碑には、だいたい次のような神社の縁起が記されている。
太田道灌の最愛の娘が当時大流行していた疱瘡に罹りだんだん悪化していった。ある日、道灌は知人から「山城国(京都)の一口(いもあらい)稲荷社に祈願すれば平癒する」と聞く。そこで道灌は早速使いを立て祈祷したところ、姫の病は快方に向かい完治した。
喜んだ道灌は山城国から一口稲荷社を勧請し、江戸城内に一社を建立。道灌はこの社を崇拝し、姫もまたこの社を深く信心して仕え、やがて一口稲荷は太田姫稲荷とも呼ばれるようになった。

  • 太田姫稲荷神社縁起の碑

「一口」を「ひとくち」でなく、「いもあらい」と読むのはなかなか難しい。「一口」は「芋洗い」の意で、疱瘡と関係が深い。古来、芋(いも)とは疱瘡に罹ったときできる「あばた」を指す言葉でもあった。疱瘡の特徴は発疹があることである。「水疱」は「膿疱」と進み、やがて「あばた」となる。その「あばた」を水で洗い “疱瘡が治りますように”“疱瘡に罹りませんように”と疱瘡神に祈るのが一口稲荷である。
話が少しそれるが、東京・九段北に「一口坂」という坂がある。現在は「ひとくちざか」だが、もともとは「いもあらいざか」と呼ばれていた。また、東京・六本木の「芋洗坂」は、港区設置の標識によれば「芋問屋があった」とその由来が説明されている。だが、疱瘡との関係もありそうで、坂の近くの川で洗ったものは実際の「芋」か「あばた」かは、はっきりしていない。いずれも疱瘡と関係がありそうである。

 

太田姫稲荷は、実は2回移転して現在の場所に来た。最初の移転は境内の碑文によると「慶長11年(1606)の江戸城大改築の際、城内より西の丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移された。この坂は一口坂(いもあらいざか)、後に淡路坂ともいう」とある。「一口」の意味は前述の通り、「淡路」は江戸初期に鈴木淡路守の屋敷があったからで、現在も坂名や町名にその名を留めている。
2回目は、その淡路坂から昭和6年(1931)に御茶ノ水駅の総武線拡張のため、社地の大半が使われることになって移転した。

  • JR御茶ノ水駅東口を出た聖橋南詰の辺り、ここが江戸城から最初に遷座した稲荷の場所。淡路坂の狭いスペースに椋の大木。「元宮」の木札が掛かり「太田姫神社」「旧名一口神社」の表記が見られる。

現在ある太田姫稲荷は、淡路坂から数百メートル離れた所にある。それも単純な移転ではなく、きちんと江戸城の鬼門の方向を守っていることに感心してしまう。少し城の方向に近づいた場所で、現在も旧江戸城(現皇居)の鬼門を守っている。
付記/同様の伝説をもつ「麹町太田姫稲荷神社(千代田区麹町1-5-4)」がある。マンション脇に鎮座する小さな稲荷、プレートには「駿河台太田姫稲荷神社の分社と思われる」と説明されている。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考資料 『太田姫稲荷神社縁起』『太田姫一口稲荷風邪咳封治』

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