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コラム江戸

日光東照宮、徳川家康と家光の関係。

日光東照宮 陽明門(国宝)  (栃木県日光市)

戦国の世を戦い抜いてきた徳川家康は、忍耐強く、緻密な計算のできる優れた武将だった。幕府を開き徳川将軍家の土台となって、260余年にも及ぶ安定した世を生み出した。さすがと思うのは、家康自身の死後に際しての用意周到さである。

元和2年(1616)、家康は駿府城(静岡市)で75歳の生涯を終えた。用意されていた遺言の内容は次の4つ。
1. 遺体は久能山に葬ること …駿府城に近い静岡市
2. 葬儀は増上寺で行うこと …徳川将軍家の菩提寺、東京都港区
3. 位牌は大樹寺に立てること …家康先祖の菩提寺、愛知県岡崎市
4. 一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて勧請すること …男体山を中心に古くから神仏習合の霊場として開けた日光山
4番目は「関八州の鎮守とならん」という内容で、家康は死を迎えるにあたって、神になることをもう宣言し、具体的な場所まで指定しているのだ。没後はこの遺言通りに事が運び、今も日光東照宮、神号「東照大権現」(徳川家康)が鎮座する。

  • 『肖像』
    徳川家康(東照宮)と天海僧正(慈眼大師)
    (家康は駿府城に天海らを招き、
    遺言を託したという。)
    出典 国立国会図書館貴重画データベース

神号が東照大権現に決まった経緯には、家康のブレーンだった2人の高僧の意見の対立があった。その高僧とは金地院崇伝(こんちいんすうでん)と南光坊天海(なんこうぼうてんかい)。崇伝は「明神」号を、天海は「権現」号を推した。結局は、秀吉が既に「豊国大明神」になっていたが豊臣家は滅びたということで「権現」に決定。これは2人の神道の違い(崇伝は吉田神道、天海は山王神道)によるものだった。どちらが上かという問題ではない……お稲荷さんは稲荷大明神であり、神田明神や諏訪明神などは明神様と呼ばれ、山王権現、白山権現、愛宕権現などは権現様と親しまれている。

家康の遺言に従って一周忌を迎えた元和3年(1617)、天海主導のもとに久能山から日光へ遷座、これに先立ち朝廷から「東照大権現」の神号が贈られている。

東照宮の立派な陽明門や唐門、拝殿や本殿を見て、遺言と違うじゃないかと思う人もいるだろう。確か家康は「小さなお堂」を建てろと言っていたはずなのに、これぞと言わんばかりの絢爛豪華な建物だ。最初は小さなお堂だったのかもしれないが、実はほとんどの建造物は、二代秀忠ではなく三代将軍家光によるもの。「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」と呼ばれている。家光は天海の助言をもとに大々的に建て替えたのだった。

家光の真意は……第一の理由は、自分を将軍に指名してくれたのは祖父の家康であり、並々ならぬ思い入れがあったのではないか。まさに神だった。生前家光は資料によると、10回も東照宮に参詣している。歴代将軍の半数は1回も参詣していないことからも、よほど敬慕の念が強かったと思える。
第二は、幕府の財政が豊かな時期だったことによる。大造替をするだけの財力があり、莫大な費用を要した建造物は諸大名の力を借りずに自前だった(諸説有り)。
また、家光の霊廟、大猷院(たいゆういん)は遺言により東照宮のすぐ近くに造営された。輪王寺(りんのうじ)にあるその建物は、東照宮に向かって見守るかのように建っているのが印象深い。なお、歴代将軍の霊廟は、増上寺6人、寛永寺6人、谷中霊園1人に対し、家光だけは家康に寄り添って日光となっている。

平成11年(1999)、東照宮や輪王寺は「日光の社寺」として世界文化遺産に登録された。数多くの国宝や重文、宝物館も見学できる。「陽明門」「三猿」「眠猫」以外にも見所はいっぱいある。
東照宮の主な社殿群は、家光が寛永13年(1636)に造替、寛永という時代は、強固な幕府の体制が出来上がる時だった。上野の台地に天海が寛永寺を建立。江戸時代にずっと流通した貨幣である寛永通宝の鋳造開始。鎖国の完成や大名に参勤交代を義務づけたのも、武断政治を推し進めた家光の治世、みな寛永年間である。
東照宮の存在は、将軍家の威厳を示すとともに、盤石な幕藩体制を誇示するために大いに役立ったのである。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考資料『陽明門を読み解く』日光東照宮

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