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深谷といえば「深谷ねぎ」で日頃からお世話になっている。あの甘くてやわらかい深谷ねぎの一大生産地だ。が、深谷はそればかりではない。今関心が集まるのは、渋沢栄一という存在である。現在の埼玉県深谷市血洗島(武蔵国榛沢郡血洗島)の生まれ、23歳までこの深谷で過ごしている。その後は、古里の恩に報いるために晩年になっても度々帰郷し、深谷に多大な功績を残した人物である。
渋沢栄一(1840-1931)の生涯を俯瞰してみると、あまりにも多くの実績を残したことに感心してしまう。まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をした人で、その分野は、政治・経済・各産業・教育・福祉など広範囲に及ぶ。幕末から、明治、大正、昭和と生き抜き、才能だけでなく91歳という長寿を全うしたことも幸いした。
- 渋沢栄一生地 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」明治28年頃建て替えられた主屋と中庭の銅像「若き日の榮一」(深谷市血洗島247番地1)
天保11年(1840)に深谷市に生まれた渋沢栄一は、農家(藍染の原料となる藍玉の製造・販売、養蚕)で育った。名字帯刀を許されるほどの家柄で裕福な農家である。父親からは商売の基本を学び、年の離れた従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)からは論語をはじめとする学問を学んだ。論語の倫理観は、後に関わる全ての事業の基本を成したものではないだろうか。晩年刊行した『論語と算盤』は、そのことを語っているように思う。
尊王攘夷思想の影響を強く受けた青年期は、ちょうどペリーの浦賀来航の頃にあたる。幕末動乱期のなか、倒幕派から逆に幕臣へとなっていく。維新後は新政府に出仕、そして役人を辞して実業の世界へ入るという、時勢を捉えた転身ぶりは見事というしかない。
さて、深谷へのアクセスは、JR東日本高崎線の深谷駅で下車。最初に思うことは「この駅舎、どこかで見たような…東京駅の真似?」。失礼、真似は言葉が悪い。パンフレットにあるように「東京駅をモチーフにしている」のだ。それも単なるモチーフではなく、深谷ならではの、深―い訳があった。
東京駅(当時は中央停車場)は、明治期に工事が始まり大正3年(1914)に名称を改め営業を開始した。その時の建築材料に使われたのが深谷産のレンガだった。深谷駅はそんな史実に因んでいる。
- 現在の東京駅
(2021.3.17撮影)
そのレンガは、明治20年(1887)、渋沢栄一が中心となって設立した「日本煉瓦製造株式会社」で造られた。時あたかも、明治政府が富国強兵・殖産興業を推し進めるなか、近代日本経済の骨組みが着々と整えられた時代。政府は日比谷周辺の官庁街を西洋風建物にするためのレンガを必要とし、渋沢栄一に大量生産ができる日本初の機械式レンガ工場設立を要請したという背景がある。
その時すでに彼は、名を上げ実業界の重鎮となっていた。工場地には生家近くの、上質な粘土が得られる上敷免村(現深谷市上敷免)が選ばれた。
「日本煉瓦製造株式会社」は平成18年(2006)まで約120年間稼働し、現在は「旧煉瓦製造施設」として国の重要文化財に指定されている(深谷市上敷免28番地10)。
明治期を代表する建築物はレンガ造りが多い。深谷のこの工場で造られたレンガを使用した建築物として、法務省旧館、日本銀行旧館、赤坂迎賓館、東京大学などが今も残る。レンガは、建築史においても美術史においても重要な位置を占めているように思う。
令和6年(2024)から1万円札が刷新される。肖像画は渋沢栄一。福沢諭吉から40年ぶりにバトンタッチだ。裏面に描かれているのは何と東京駅舎である。日本煉瓦製造のレンガが使われた当時の東京駅舎のようで、これは新札デザインの隠し味といったところだろう。
深谷にレンガに東京駅、そして新1万円札、さらに大河ドラマ『晴天を衝け』が加わって、渋沢栄一の知名度や人気はぐんと高まった感がある。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考資料『日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設』
深谷市教育委員会
明治2年(1869)、戊辰戦争終結後、渋沢栄一は駿府で謹慎中の徳川慶喜のもとにいた。そこに明治新政府から出仕要請がくる。財政改革の手腕があり、能吏として高く評価されていたからである。渋沢はもちろん固辞。慶喜への恩義もあり、旧幕府側から新政府に鞍替えするのはいくらなんでも……ということだろう。そんな渋沢を説得し、新政府に引き込んだのは大隈重信だった。
『上州富岡製糸場』一曜斎国輝 明治5年 国立国会図書館蔵
官営の富岡製糸場は、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らが中心となって設立。渋沢が抜擢されたのは、海外経験のある知識豊富な逸材だったことのほかに、蚕や繭に詳しい養蚕農家出身だったことだ。
明治5年(1872)創業、設立には外国人技術者の力も借りながら多くの人が関わった。その中の一人に渋沢の従兄弟、学問の師でもある尾高惇忠がいる。富岡製糸場初代場長になった人である。創業時、工女を募集しても応募者が現れず、その原因は妙な噂(生き血を取られる)だった。発端は、外国人の飲むワインを血と勘違いした人がいたらしい。困り果てた尾高は長女の勇(ゆう)を工女の第1号にし、安全であることを証明してみせたのだという。間もなく応募者は全国から集まり、数百人の工女を抱えて、生糸の大量生産が可能になっていく。
開港以来、外貨獲得に貢献した最大の輸出品は生糸である。日本が近代化できたのは、富岡製糸場とともに生糸のおかげであったことを忘れてはならないだろう。
文 江戸散策家/高橋達郎
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