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「安政遠足」とは、安政年間(1854-1860)に行われたマラソンのことである。歴史的読み方だろうか、本来そう読むべきか分からないが、「遠足」を“えんそく”ではなく“とおあし”と読ませるところが何とも言えず感慨深い。“えんそく”が徒歩で遠方に行く行楽的要素が強い楽しいレジャーだとしたら、“とおあし”は長距離の徒競走、順位やタイムを競うスポーツでいわばマラソンである。
マラソンは、オリンピックでも人気の高い種目の一つだ。その原型ともいえそうな日本の発祥の地が、現在の群馬県の安中(あんなか)市にあった。その歴史を辿ってみよう。
「遠足」の発案者は、上野国安中藩(3万石)の十五代藩主・板倉勝明(いたくらかつあきら)。勝明は学問好きで著述も多数あり、学者大名として知られた人物である。そのためか、武士には藩校で、領民には郷学校(ごうがっこう)で学ばせるほどの、とにかく文武教育に一生懸命の殿様だった。武の一環として、藩士の心身鍛錬を目的として行われたのが「遠足」なのである。
・主催者 | : | 安中藩主・板倉勝明 |
・開催日 | : | 第1回目/安政2年(1855)、5月19日 |
・参加者 | : | 50歳以下の安中藩士全員(強制的)98名 …6、7人ずつ十数組に分け、日をかえて実施。 |
・コース | : | 安中城 → 熊野神社(碓氷峠山頂/長野県との県境) |
・出 発 | : | 明六つ(あけむっつ)、午前6時頃の太鼓を合図に自宅を出て、安中城門から西へ西へと中山道をひた走る。坂本宿を経て、碓氷関所を通過しゴールを目指す。 |
・距 離 | : | 7里余り(約29Km) …スタートとゴール地点の標高差は何と1050メートル。上り坂というよりは、ほぼ山登り同然の苦行に近い。 |
・ご褒美 | : | 熊野神社にゴールした藩士たちは、まず初穂料を納めて参拝。その後、ご馳走として「力餅」「栗」「切り干し大根」「茶」などが振る舞われた。 |
・備 考 | : | 帰路の乗り物は禁止 …帰りも走ったり歩いたりしなければならなかった。途中、馬や駕篭(かご)を雇って戻ることを禁じた。「もしそのことが殿様の耳に入れば、厳しい御沙汰があると心得よ」との内容が『遠足規定書』に記されている。 |
- 安政遠足之碑(安中市文化センター) 熊野神社(碓氷峠 熊野神社)
安中藩主・板倉勝明は、なぜ「遠足」を発案したのか、なぜ挙行しなければならなかったのかを考えてみたい。
そこには幕末、安政という時代が大きく影響している。安政元年(1854)、この年ペリーが再来し日米和親条約が調印され、安政5年(1858)には日米修好通商条約・貿易章程が調印され、日本は激動の時代の真っただ中にあった。時の老中首座は阿部正弘(あべまさひろ)。調べてみると、板倉勝明とは従兄弟同士の関係である。攘夷論が各地で吹き荒れるなか、板倉は老中から押し寄せる諸外国の情報を得て、国防の重要性に思い至ったと想像する。異国兵に対峙するためにまず藩士を鍛えようと決断したのではないだろうか。過酷な「遠足」は軍事訓練のようにも思えるのだ。
「安政遠足」を題材にした作品がいくつかある。映画『まらそん侍』(1956年)、タイムスクープハンター『風になれ!マラソン侍』(2011年/NHK総合)、最近では、映画『サムライマラソン』(2019年)がある。また、マラソンに関連しては、大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(2019年)が記憶に新しい。
さて、安中市では現在も「遠足」の由来を踏まえてマラソン大会が開催されている。主催は安政遠足保存会/安中市。江戸時代とは距離や趣向を変えて、勝ち負けにこだわらず楽しく走りきる!?というマラソンだ。侍姿のランナーもいて、皆思い思いの仮装で走る楽しいイベントとなった。コロナ禍で2年続きで中止となってしまったので、来年(2022年5月)に期待しよう。「安政遠足」は別名「侍マラソン大会」とも呼ばれている。
文 江戸散策家/高橋達郎
協力 公益社団法人安中青年会議所
「力石」は“ちからいし”と読む。“りきいし”と読めば『あしたのジョー』の登場人物になってしまう。漫画の方はボクシング、“ちからいし”は同じスポーツでも、いわばウエイトリフティング(重量挙げ)の世界だ。
「力石」とは力比べに使われた大きな石で、楕円形をしている。少し平べったく巨大な漬物石のようでもある。表面には、重量○○貫、石を持ち挙げた人の名前、奉納、力石、さし石などの文字が刻されている。無銘のものもある。つまり「力石」はウエイトリフティングのバーベルに相当する。古くから力比べはあったが、江戸中期から大正時代にかけて各地で行われていた。
- 田端神社境内にある力石群。一番大きい力石には
『奉納 五拾五貫目』とある。約206キログラム。
力比べの会場は寺社の境内、祭礼の時などに「力石」を担いでその力を競いあった。無観客ではなく近隣住民を大勢集めての“力自慢大会”のようなものだ。選手は剛健な青年たち。酒屋、米屋、河岸の荷揚げ職人、力士などもいた。重い石を持ち挙げれば、拍手喝采、男のなかの男、益荒男として褒め称えられる。
重要なのは単なる力比べではなく、民間信仰としての側面である。娯楽性も高いが、その地域の繁栄や五穀豊穣、戦勝祈願、天然痘(ウイルス感染症)などの疫病退散を願う奉納行事としての位置付けが適切だろう。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
協力 田端神社(杉並区荻窪1-56-10)
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