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渋沢栄一の銅像が金融機関が集まる大手町にある。東京メトロ・半蔵門線「三越前駅」の大手町駅寄りを出ると、そこは外堀通り、道を挟んで日本銀行本店が見える。銅像は、目の前の日本橋川に架かる常盤橋を渡った先 (常盤橋公園/千代田区大手町2-7-2)だ。
そこは、江戸城の常盤橋門があった場所。常盤橋門(浅草口)は「江戸五口」といわれた江戸城外郭門の一つで、奥州道に通じていた。常盤橋門は大手口とも呼ばれ、江戸城外郭の正門として機能し、大番所や番所も備えた警備上重要な門だった。
常盤橋門から江戸城の大手門までは約1.2キロ。例えば、小石川の水戸屋敷を出発する水戸徳川家などが登城する際は、常磐橋を渡りこの常盤橋門を通って江戸城へ向かったと思われる。
銅像がここに建つ理由は、渋沢栄一が生涯歩んできた道を辿ってみれば見えてくる。
攘夷の志に燃え江戸に出てきた渋沢は、ひょんなことから対抗する幕府側の一橋慶喜(一橋家)に仕えることになる。やがて慶喜が十五代将軍となると、今度は幕臣に。つまり、江戸城を守る常盤橋門の場所は銅像が建つ場所としてふさわしいといえる。
日本銀行本店
常磐橋(後方に日本銀行本店)
それにこの地区は、金融関係にゆかりのある場所であること。常盤橋のすぐ向こう側に日本銀行本店。江戸時代には金座(金貨の鋳造所)が置かれた場所である。
また、わが国の中央銀行として明治15年(1882)の日本銀行開業以前に、渋沢は明治6年(1873)に第一国立銀行(日本最古の銀行)開業に総監役として携わり、後に頭取を務めている歴史がある。第一国立銀行のあった場所(中央区日本橋兜町4-3)では、現在みずほ銀行兜町支店が営業している。銅像の渋沢はこの第一国立銀行の方向を見ているそうだが、実際のところはどうだろうか。確かに大手町・日本橋方面を向いてはいる。
皇居周辺にある銅像はみな大きいが、これもまた大きい。台座の部分が銅像全身より長いせいか、下から見上げると、なおさら堂々と凛々しく見える。各地で渋沢の銅像を見てきたが、これがナンバーワンと思える。作者は、明治から昭和にかけて活躍した彫刻家(彫塑家)の第一人者、朝倉文夫。興味のある方は、作品やアトリエを見学できる朝倉彫塑館(台東区谷中7-18-10)を訪れてほしい。
常盤橋門と常磐橋、既にお気付きと思うが「盤」と「磐」の漢字の違い。少々ややこしい話になるが、現在この「ときわ」と付く同じエリアにある橋は3基存在する。下流の日本橋・隅田川方面から「常盤橋」「常磐橋」「新常盤橋」、公園名は常盤橋公園だ。
常磐橋は、天正18年(1590)の架橋当時は常盤橋と記された。平安後期の「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ(金葉集)」の古歌に因んだ名称という。「盤」を「磐」に変えたのは三代将軍家光の時代、その理由が面白い。
「皿」は割れたり壊れたりするので縁起が悪い、その点「石」は丈夫ということらしい。だいたい橋というものは、洪水で壊れたり流されたりするのが当たり前だったから、気持ちはよく分かる。
木橋だった常磐橋は明治になって一度撤去され、文明開化の時流のなかで明治10年(1877)、洋式の石橋に改架された。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受け、そのまま放置されていたようだ。やがて復興の機運が高まり、公園が整備されて、昭和9年(1934)には橋の修復工事が決定する。この復興事業に尽力し成功に導いたのは、渋沢栄一だったことは覚えておきたい。
再び常磐橋が被害を受けたのは、平成23年(2011)の東日本大震災。被災後は崩落の危険性があり、立ち入り禁止となる。それをまた修復に乗り出したのは、今度は千代田区である。
石を一つひとつ取り外して記録、解体し、元通りに積み直すという気の遠くなりそうな修復・復元工事を行った。「石一つも文化財」という考え方の工事は、日本人の歴史・文化への向き合い方の素晴らしさを感じる。コロナ禍で工事はだいぶ遅れたものの、令和3年(2021)5月、目出たく文明開化期の美しいアーチの橋が蘇った。完成した常磐橋は歩いて渡れる。ただしクルマは通行不可。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考資料『広報千代田vol.1542』千代田区
第一国立銀行(旧第一勧業銀行、現みずほ銀行)、東京商法会議所(現東京会議所)、東京株式取引所(現東京証券取引所)、帝国ホテル、……これらはみな渋沢栄一が設立に関わった企業とされる。関与した企業数は、何と500以上。さらに教育・社会事業の支援を加えると、相当な数だ。銀行、造船、建設、鉄道、通信、電力、不動産、新聞など……現在もある著名企業の大多数が含まれているといっても過言ではない。はたしてそんなことを一人の人間ができるものかと思うが、関与の強弱はあるにせよ、様々な資料はそれを語っている。
渋沢は、明治6年(1873)、王子に「抄紙会社(後に王子製紙)」を設立。同12年(1879)には王子の飛鳥山に別荘を構えた。その工場を見晴らせる場所が飛鳥山だった。本邸は深川で後に兜町に移転、同34年(1901)になって本邸を飛鳥山に移した。昭和6年(1931)、91歳で亡くなるまでの30年間をここで過ごしている。
現存する遺構は、書庫や応接の場として使われた「青淵文庫」と茶室「晩香廬(ばんかろ)」。広大な敷地には多くの建物があったが、空襲で焼失してしまっている。
当時の渋沢邸は単なる邸宅というイメージではない。事業のための会議や接待、社交の場として機能し、海外からの賓客も迎える、総合的な施設だったようだ。
- 飛鳥山公園の「青天を衝け大河ドラマ館」と博物館「渋沢史料館」
農家出身の渋沢が、武士になり幕臣にもなった。転じて新政府の官僚、次に実業家の道へと進む。この地は実業家になってから暮らした場所だ。現在の王子飛鳥山は、渋沢栄一の、いわばテーマパークとなっている。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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