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コラム江戸

大政奉還した徳川慶喜と、渋沢栄一。

二条城 二の丸御殿    慶喜は、在京の大名を集め「大政奉還」の決意を告げた。

慶喜は、慶応3年(1867)10月13日、二条城で「大政奉還」を表明、翌14日に朝廷に上奏し、政権を返上した。
大政奉還しても、朝廷に政治を執る能力がないことから、かたちは変わっても政権を掌握できるだろうと慶喜は計算していたようだ。ところが12月9日、「王政復古の大号令」発布。これは倒幕派(薩摩、長州など)のいわばクーデターで、慶喜不在のまま、小御所会議で新政府の樹立とともに、慶喜の官位辞任・領地返上が決定される。この時が260余年続いた江戸幕府終焉の瞬間である。
当然、旧幕府軍はこの新政府を受け入れられるはずもなかった。暴発寸前の旧幕府軍を慶喜も抑えることができず戦いに臨んだが、京都郊外の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に惨敗。錦の御旗の登場で朝敵となった慶喜は、大坂湾から軍艦で江戸へ戻ってしまう。
江戸では新政府に恭順の意思を伝え、上野寛永寺で謹慎。江戸城は無血開城され、「鳥羽・伏見の戦い」に始まる「戊辰戦争」は、その後、国を二分する戦いに拡大していくのである。

一方、このころの渋沢栄一の動向を確認してみよう。栄一は、慶喜が将軍に就く前からの家臣で、幕臣となってからもずっと慶喜を崇敬し支えてきた人物である。大政奉還時には欧州滞在中だった。慶喜の命で慶喜の弟、昭武(あきたけ)に随行し欧州を歴訪、進んだ西洋文化・経済を学んでいる最中に幕府が倒れたことを知る。新政府からは帰国命令が届き、まさに晴天の霹靂ともいうべき事態で、急遽帰国の途に就いた。
明治元年(1868)11月、日本に戻った栄一は、まるで浦島太郎のようで、江戸は東京になっていて、その変わりようにさぞかし驚いたことだろう。大政奉還、王政復古、彰義隊は「上野戦争」で壊滅し、戊辰戦争は蝦夷地で終盤を迎えていたころである。
慶喜はその後、寛永寺を出て水戸で謹慎、さらに駿府(静岡)に移って謹慎(明治2年解除)した。栄一は駿府を訪ね、その後も慶喜を慕って、新政府に出仕するまでは静岡で活動している。

  • 将軍時代肖像
  • 閑居時代(静岡)肖像

静岡在住時の慶喜の暮らしはどうだったのか。将軍時代とは打って変わって、ひたすら趣味の世界に没頭した生活を送っていたようである。この趣味がとにかく幅広い。弓、狩猟、釣り、投網、囲碁、油絵や刺繍、他にもいろいろ。新し物好きだったらしく、洋式自転車でのサイクリングや写真撮影なども楽しんでいる。
慶喜の周辺では、新政府が監視の目を光らせていただろう。多くの趣味を派手に楽しんだ背景には“私は政治的な野心は一切ない”というポーズも必要だったと考えられる。

現代の慶喜の評価はまちまちである。“幕府を終わらせてしまった将軍”“鳥羽伏見の戦いの途中で江戸に逃げ帰った将軍”とキビシイ意見もあるが、はたしてそれだけだろうか。
「禁門の変」では禁裏御守衛総督として指揮を執り、戦いの前線で長州軍と戦い御所を守っている。通常このような立場の人は戦いの現場までは行かないものだ。朝廷からの信頼もあり、勅許を得る交渉などでは、なかなかの手腕を発揮している。
決して戦上手の将軍とは言えないが、大政奉還は日本が近代化の道を歩む第一歩になったという見方もでき、外国の植民地にならなかったことも功績の一つと言っていいのではないか。恭順して、江戸を火の海から救ったことも挙げられる。激動する国内外の状勢のなかで苦悩した将軍、在職期間は慶応2年12月5日(1867年1月10日)~慶応3年12月9日(1868年1月3日)の1年間、歴代将軍で最も短い。

  • 徳川慶喜
  • 渋沢栄一

慶喜は、許されて後半生を東京で悠々自適の生活を送ることができた。天皇家との交流も深まり、明治35年(1902)には公爵を授けられている。栄一は、そんな慶喜を生涯仰ぎ見ていた。25年をかけて慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』を著している。これは、主君慶喜の汚名を晴らし功績を称え、世に知らしめるためだったという。

文 江戸散策家/高橋達郎
肖像写真/国立国会図書館デジタルコレクションより
参考文献『徳川慶喜公伝』

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