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コラム江戸

持続可能な江戸に必要だった水道。[1]

『名所江戸百景 井の頭の池 弁天の社』広重

天正18年(1590)、徳川家康は江戸入府時から大きな課題に直面していた。飲み水(上水)の確保だ。江戸は湿地帯も多く、井戸を掘っても塩気もあり、良い水は出ない場所だった。江戸城で使う水くらいは城が高台にあったため、湧水を溜めて利用できただろうが、多くの家臣や町人が三河からやってくる。人口は、益々増えていく。
予想される水不足に対処するために、家康は入国前から家臣に上水の設置を命じていた。水確保のプランは、江戸発展の礎を築き、260余年の幕府を持続させたといったら言いすぎか…。最近の言葉でいえば、江戸幕府のサスティナビリティー施策である。

上水の設置を命じられたのは、家康の三河時代からの家臣、大久保忠行。治水家として知られる武将で、大久保主水(もんと)とも呼ばれる。主水が探し当てた水源は井の頭の池(三鷹市)だった。
井の頭の池は湧水池で清らかな水がこんこんと池底から湧き出ており、中世の時代から飲み水に適した水だった。この池を主な水源として武蔵野台地からの伏流水を利用し、江戸城下に上水を導き入れた。これが後に「神田上水」と呼ばれる水道である。完成をみたのは三代将軍家光の時代。ルートは神田川の水路の一部を修正し、関口(大滝橋辺り)で堰留めて水位を上げ(今も神田上水取水口大洗堰跡がある)、その上水は小石川の水戸藩邸を通って、神田川に架けた水道橋で渡り、江戸城内や神田・日本橋方面に送水された。


  • 『江戸名所図会 せき口上水端 はせを庵椿やま』 広重

前述の大久保忠行という人物は、先に小石川上水を開いている。小石川上水を利用して発展させたのが神田上水といわれる。
神田上水が本格的な水道網として完成した頃には、家康も大久保忠行も亡くなっていた。存命時の逸話として──家康は大久保の功に報いるために「主水」の名前を贈った。大久保主水である。主水(もんど)の本来の意味は、天皇の飲料水を担当する官職名である。漢字からして、上水を開いた人物にこれほどぴったりした名前はない。ただ、家康は「もんど」でなく「もんと」と読むよう命じた。上水が濁ってはいけないからである。

  • 『名所江戸百景
    せき口上水端 はせを庵椿やま』 広重

    洗堰はここには描かれていないが、
    絵のすぐ左下方にあった(前絵図参照)。

神田上水の流れを描いたこの場所は、現在の文京区関口(せきぐち)の辺り。地名は絵の左下に水を堰止めた洗堰(あらいぜき)があったことに由来している。
当時の川の名称が気にかかる。いわゆる神田川の上流を神田上水、中流を江戸川、下流を神田川と漠然と呼んでいたと思われる。関口は、東京メトロの有楽町線江戸川橋がすぐ近くだ。駅名からも、昔は江戸川と呼ばれていたことが分かる。
絵の右隅の建物は「関口芭蕉庵(せきぐちばしょうあん)」。芭蕉庵といえば「深川芭蕉庵」ばかりに目がいくが、東京には芭蕉庵が2箇所ある。俳諧師芭蕉がここに居を構えて神田上水の仕事をしていた時期があった。深川に移る前の数年間の間だ。芭蕉は藤堂家に仕える下級武士で、藤堂家は関口(洗堰)の補修、工事、管理などを幕府から命じられていた関係らしい。仕事は水役とされているが、具体的にははっきりしていない。水道の監視や事務、工事の監督などをやっていたのだろう。俳人芭蕉の意外なエピソードである。

 

神田上水は、江戸初期に完成してから明治の中ほどまで使われた水道インフラである。これだけの期間、江戸市民のサスティナブルな飲料としての水道を維持できたのは、幕府も力を入れたばかりか、人々も水道を汚さないよう協力したからだった。

文 江戸散策家/高橋達郎
画像出典/国立国会図書館貴重画データベース

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