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江戸の水道には2水系があった。「神田上水系」と「玉川上水系」である。神田上水は、その元となる工事を家康入府時から始めており、寛永6年(1629)ごろには上水を江戸市中に引き入れている。玉川上水の完成は、開府から50年後の承応2年(1653)、20数年の開きがある。三代将軍家光の時代には、神田上水だけでは飲料水確保が難しく、幕府は江戸の町の持続可能な発展のために玉川上水開削を計画したのだった。工事の総奉行は老中松平信綱(川越藩主)、水源は多摩川に求めた。工事を請け負ったのは、玉川村の農民の清右衛門・庄右衛門兄弟である。
浮世絵の中央に流れているのが玉川上水。場所は内藤新宿の南側、位置的には四谷大木戸の手前で、現在の新宿御苑の辺りだ。
- 羽村取水堰近くの銅像
右が兄の清右衛門、
左が弟の庄右衛門
8カ月後に完成した水路の長さは、取水口の多摩郡羽村(羽村市)から四谷大木戸(新宿区四谷4丁目交差点付近)まで約43キロメートル、いわば武蔵野台地を掘り進めた人工の川である。当時は現代のような建設重機などなく、素掘りの大土木工事だった。
工事は順調には進まなかった。関東ローム層は浸透性が高く水が地下に吸い込まれてしまう場所もあって、水路の変更もしたという。さらに、工事途中で資金が底をつき、清右衛門・庄右衛門兄弟は私財を擲って完成させたという。
幕府はこの難業を成し遂げた兄弟に「玉川」の名字、帯刀を許し、禄を与え玉川上水役を命じている。
8カ月かけて上水は開渠(地上/素掘り)で四谷大木戸まで届き、翌年にはその先から暗渠(地下)で江戸市中へ給水されるようになった。主な給水地域は、江戸城をはじめ、麹町、四谷、赤坂、芝、築地方面など江戸城の西南部一帯。
地下には「水道の樋(木製、石製)」が張り巡らされた。そこから「呼び樋(竹筒)」で井戸の中に水を引き入れ、溜まった水を汲み出して使うシステムである。井戸は、地中から地上部まで何層にも重ねた「井筒」で構成され、水を漏らさないように工夫されている。
- 江戸井
『守貞謾稿 巻三』
『和国百女』 菱川師宣
中央の女性が握っている竹竿(たけざお)の長さに注目したい。井戸はそれほど深くはないことが分かる。これが「水道井戸」だ。
江戸には、他にも水道を使わない「掘抜(ほりぬき)井戸」があった。こちらは、地下を掘り進んで地下水を得る井戸で深い。縄の両端に釣瓶桶(つるべおけ)を付けて滑車を使うタイプで、釣瓶桶の片方を上げると片方が下がって水を汲む仕組みとなっている。
余談になるが、調べていたら井戸の「井」の本字は「丼」であることが分かった(『大漢和辞典』諸橋轍次著)。「井」=「丼」ということなら、なぜ「井」の中に「ヽ」があったのかが気になる。どうやらこの「ヽ」は釣瓶桶を表しているようである。
また、「丼」は“井戸の中に物が落ちて音が鳴るさま”とする説もある。井戸に石を投げ入れれば、“ドボン”とか“ドボーン”と音が聞こえる。それがやがて“ドンブリ”となったとか…ちょっと苦しい気がしないでもない。
文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献/『上水記』『守貞謾稿』
画像出典/国立国会図書館貴重画データベース
昭和45年(1970)、道路工事の際、石枡が出土した(千代田区麹町三丁目2番地先)。四谷大木戸から暗渠で引かれた玉川上水の本管の一部で、江戸城内に向かう途中の水道施設である。写真では2段重ね石の塊が左右2つに別れているが、使用時は4段に積まれて地中にあった。
1段目と2段目にまたがる四角に空いた穴は、石枡に木樋(もくひ)をつないで通水するための挿入口である。
木樋の写真が、脇の説明板にあったので、そのまま写真で紹介しておく。木樋の現物は、千代田区立日比谷図書文化館展示室にある。石枡と併せて見たらなおいい。
石枡と一緒に出土した木樋
水道の維持管理はどのようになっていたのだろうか。幕府は江戸市民の毎日の飲料水の確保、清潔な水の安定供給に腐心してきた。四谷大木戸には水番所があって番人が詰め水量の調節や警備をした。水見廻りの役人もいて要所の巡回もしていた。なかなか厳重な監視である。
地上を流れる部分は、現代のように科学物質が流れ込む心配はあまりないだろうが、色々な決まりがあった。
水道の要所要所には高札(こうさつ)が立てられていた。その内容を簡単にまとめてみると──「舟の禁止」「魚を捕るな」「水浴びをするな」「ごみを捨てるな」「洗濯をするな」…当たり前だがかなり細かい。
幕府も厳しかったが、住民たちはそれをよく守ったようだ。最近の言葉でいえば、安全な飲料水確保のための正に官民一体となったSDGsの実践ということになろう。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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