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大河ドラマ『麒麟がくる』のタイトルに、最初戸惑いを覚えた人も多いだろう。主人公である明智光秀(あけちみつひで)のにおいもなく、いきなりビール会社のタイアップかとも思える難しい漢字で麒麟…、ときた。だが、ここに作者の意図があるようだ。
麒麟は古代中国の神話に登場する伝説の霊獣である。辞書を引けば“想像上の神秘な動物。「麒」はその雄「麟」は雌で、聖人が世に出、王道が行われる時生まれ出ると伝えられる…”とある。
写真❶は、左右一対の麒麟。この麒麟は西教寺にある宗祖大師殿の❷唐門の破風(丸味を帯びた屋根部)の下にいる。虹梁(こうりょう)に美しく彫られた2体は両方とも角が生え、龍のような頭部、胴体には鱗、牛の尾、馬の蹄(ひづめ)という典型的な麒麟だ。よく見ると、“阿吽の呼吸”という言葉があるように、向かって右側は口を開く阿形(あぎょう)、左側は口を閉じる吽形(うんぎょう)の一対の姿となっていることに気付く。思い出すのは興福寺や東大寺南大門の金剛力士像。あのマッチョな体の怖い顔をしたいわゆる仁王様だ。仏教を外敵から守る門番である。麒麟もまた金剛力士像と同じように寺院を守護する役割を持つ。
麒麟もいいが、この大津坂本の地域には守護神として重要な「猿」がいる。写真❸は❷唐門の脇の屋根にいる猿。本堂の屋根にも猿が…遠くをながめたり、子どもを抱いたり、いろいろなポーズをとった猿がいる。猿が神の使いとされているからだ。
この地は琵琶湖を望む比叡山延暦寺のお膝元、「日吉大社」がある。全国の日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮に位置付けられる神社だ。いずれも猿を神の使いとして祀っている。「日吉といえばお猿さん」なのである。
日吉大社の猿は魔除けの象徴でもあり「神猿(まさる)」と呼ばれ、“魔が去る、勝る”に通じるという。一方、西教寺の猿は「護猿(ござる)」と呼ばれ“縁がござる、福がござる”と縁起がいい。
西教寺は光秀の菩提寺である。それほどの猿だから、『麒麟がくる』のタイトルは『猿がくる』でも良かったのではと、ふと思ったのだが、どうもイメージがよろしくない。そればかりか光秀のドラマが秀吉の話になってしまう。歴史的に例えるなら、麒麟がきた後に猿がきた(山崎の合戦)ということになりそうだが…。
光秀のことを知るには、そして大河ドラマをもっと楽しく観るなら、どうしても訪れたいのが先程の唐門のある西教寺だ。ここには光秀ゆかりの物や関係する古文書が多く残されている。
本堂脇には「明智光秀一族の墓」、本堂から入る本坊には「光秀と妻・煕子(ひろこ)の座像」、光秀寄進の「坂本城陣鐘」(非公開)、また坂本城の城門を移築した「総門」が残る。
明智光秀一族の墓
光秀の妻・煕子を詠んだ芭蕉句碑
「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」の句碑は煕子の墓前に建つ。芭蕉は、貧しく暮らす弟子の妻に光秀の妻・煕子の話をして勇気づけた。煕子は、出世前の光秀の催す連歌会のために黒髪を売って費用を捻出し、光秀を支えたという逸話がある。
西教寺 鐘楼
西教寺 総門
光秀の生きた戦国の世は、応仁の乱より百年を経ても混沌とした時代で、人々は麒麟の出現を待ち侘びていたのだと思う。その時代を切り取ったのが『麒麟がくる』である。
第1回の放映にこんな台詞があった。『いつか戦(いくさ)は終わって、戦のないない世の中になる。そういう世をつくれる人がきっと出てくる。その人は麒麟を連れてくる』。その人や麒麟は光秀を示唆しているに違いないが、歴史を俯瞰してみて実際はどうだったのだろう。光秀は本能寺の変で一度は天下を取ったものの、残念ながら戦国時代はまだまだ続くのである。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考資料 『西教寺縁起』西教寺
坂本城は明智光秀の拠点となった城である。織田信長より近江志賀を拝領し、元亀2年(1571)に築城。信長の安土城の築城開始が天正4年(1576)ごろだから数年先駆けて築かれたことになる。
城郭建築史のなかでは、本格的な天主を持つ城の嚆矢は安土城とされる。坂本城にもどんな規模だったか判明していないが天主が聳えていたようだ。ルイス・フロイスは『日本史』のなかで、安土城に次いで坂本城ほど豪壮華麗で有名な城はないと紹介している。(「てんしゅ」は一般に「天守」と表記されるが、坂本城や安土城などは「天主」を用いることが多い)
想像するに──信長は安土城を築く際、光秀に実験的に天主を持つ今までにない豪華な城を造れと命じたのではないか──そんな気がする。でなければ、主君を差し置いて築城できるわけがない。
坂本には悲しい歴史もあった。元亀2年(1571)の比叡山焼き打ち。信長と延暦寺の対立から生まれた戦いは凄惨を極め、比叡山はもとより坂本の地の寺社も焼かれた。皮肉にもこの焼き打ちの陣頭指揮を執ったのは光秀だった。坂本の領地は焼き打ちの恩賞なのである。
光秀は今でも人々に慕われ尊敬されている武将だ。それは坂本を歩いただけでもよく分かる。観光資源ということだけではないだろう。善政を敷いたことは確かで、戦禍を被ったこの地の復興に力を注いでいる。明智家の菩提寺となった西教寺の復興はそのよい例である。
現在、坂本城の遺構はほとんどない。琵琶湖湖畔の坂本城址公園には光秀像。その石像は、普通の戦国武将とちょっとイメージが違う。まろやかで、なぜか可愛らしいゆるキャラの光秀であった。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考資料 『下阪本湖都通信』下阪本自治連合会
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