『名所江戸百景 千住の大はし』 広重 安政3年(橋の手前が南千住、右の対岸が北千住)
出典 国立国会図書館貴重画データベース
月日は百代の過客にして……古典文学の傑作『おくのほそ道』の冒頭は、吟じたくなるほどの名文だ。この俳文紀行は、松尾芭蕉が旅を終えてから5年をかけて推敲に推敲を重ねて完成させた珠玉の作品である。元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は深川を舟で出て隅田川を上り千住に上陸。漂泊の旅はこの千住の地から始まった。
千住は五街道の一つ、日光街道の初宿として多くの旅人が行き交う宿場町。隅田川に架かる千住大橋は、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)を結ぶ江戸の出入り口である。東北方面の大名は、参勤交代の際みなこの宿場を通り、行列はこの橋を渡った。
千住大橋は、徳川家康が江戸入府後の文禄3年(1594)、隅田川に初めて架けた橋である。当時は「大橋」と呼ばれ、現在の場所より少し上流だったという。それ以降、幕府は江戸防衛上隅田川に架橋することには消極的だった。それでも橋の必要性から、下流に両国橋(1659年架橋)や新大橋(1694年架橋)などができたため、紛らわしさを避けて「千住大橋」と称されるようになった。
現在の千住大橋
昭和2年(1927)架橋
(2020年1月撮影)
おくのほそ道 旅程図 芭蕉が辿った道
『おくのほそ道』の旅程を見てみよう。千住を出立してから、600里(約2,400キロメートル)を約6カ月かけて終着地の大垣まで。ここには「大垣市奥の細道むすびの地記念館」があり、『おくのほそ道』を楽しめる充実した展示物や資料、シアターなども揃えている。「江東区芭蕉記念館」と併せて訪れたい場所だ。
芭蕉に関する句碑や塚はとにかく多い。いったいどの位の数があるのだろうか。やっぱり、こういうことを調べる人はいるもので、その数全国に約2,500基という。都内には100基はあるだろう。芭蕉の句が、それほど広く知れ渡り親しまれてきた証しである。
特徴的なのは、芭蕉は生前から有名だったこと、全国に門人が散らばっていたことだ。だからこそ行く先々で歓迎され、句を詠み、句会を開き、宿や飲食の提供も受けながら漂泊の旅を完遂できたのだろう。江戸の後期(特に宝暦~天明期)にもなると、俳諧の復古運動もあって旅の跡にはあちこちに句碑が建ち、またそこを旅人が訪れた。芭蕉は、観光資源をバラ撒きながら歩いたかのようである。今なら、さしずめ地方創生の先駆者といったところか。
話を出立地である千住に戻そう。この地域には、芭蕉の句碑や銅像などがいくつもある。最も知られたのは素盞雄神社(すさのおじんじゃ)境内の「松尾芭蕉の碑」、芭蕉ファンはこの碑を見逃してはいけない。文政3年(1820)建立の碑は劣化が激しく、今見られるのは忠実に復元(平成7年)されたものだが見応えは十分である。
松尾芭蕉の碑
(荒川区南千住6-60-1)
素盞雄神社境内
碑面には「千じゅという所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがり 幻のちまたに 離別のなみだをそそぐ」に続いて、有名な矢立初めの句「行く春や鳥啼魚の目は涙」が、芭蕉座像の絵とともに刻されている。
芭蕉は、かねてから歌人「西行」への尊崇の念を強く抱いていて、旅の目的は西行の歌枕(和歌に読み込まれた地名)を訪ねることにあった。『おくのほそ道』の序章には「…予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず…」とあり、どうしてもこの旅に出たかったのだ。芭蕉が『おくのほそ道』に旅立ったその年は、ちょうど西行の五百回忌の年にあたっていた。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献『芭蕉おくのほそ道』岩波書店
芭蕉銅像
(南千住駅西口/荒川区)
芭蕉石像
(千住橋戸町50/足立区)
芭蕉の句を鑑賞し、句碑を見ながら名勝を訪ね『おくのほそ道』を歩いてみたいという人は多い。その場合、どこをスタート地点とするかである。
芭蕉は弟子の河合曾良(かわいそら)と共に深川から船で出発したから深川でもいいわけだが、問題はそこではなく、「千住といふところにて船をあがれば…」と書かれている矢立初めの地となった上陸地点はどこかだ。つまり、隅田川の北側の左岸(足立区)か、それとも南側の右岸(荒川区)か、である。
『おくのほそ道』を読んでも「千住」とあるだけで、その答えは見つからない。随行した曾良の『曾良旅日記』にも出てこない。この問題はかつて“南北問題”として話題になったことがある。千住宿の本陣や脇本陣は北にあったため、北だと思い込んでいる人もいるだろうが、芭蕉の時代にはもう南の町家も千住宿に加えられていたからこれは当たらない。関係書籍を調べてみたが、北もあれば南もあり、ぼやかしているものもある。芭蕉の研究者の間でも結局結論は出ていないのだ。
そんな背景があって、隅田川を挟んで芭蕉像や句碑、史跡が競うかのように存在する。どちらでもいいと思うが、スタートが東海道のように日本橋と決まってはいない以上仕方ない。なお“南北問題”で足立区と荒川区が対立しているわけではないことを付記しておきたい。
「矢立初め」の矢立とは、筆と墨壺をコンパクトに容器に収めた携帯用筆記具で、銅像(写真左)のように腰にさして旅に出た。石像(写真右)のほうは句帖と一緒に左手に持っている。いずれにせよ『おくのほそ道』は、千住から始まったのである。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『奥の細道・旅立ち展』荒川区教育委員会
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