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聖路加国際病院や聖路加タワーのある辺りの地名は、現在「中央区明石町」である。江戸時代は「築地鉄砲洲(つきじてっぽうず)」と呼ばれた。鉄砲洲という呼称は「鉄砲洲通り」や、その通りに面した「鉄砲洲稲荷神社」に名が残る。鉄砲洲の名前の由来は、鉄砲水のような洪水のあった場所なのかと思いきや、鉄砲(火縄銃)の試し打ちをする場所だったということらしい。鉄砲の形をした州があったという説もあるが、江戸期の古地図を見ても判明しない。
聖路加タワー 中央区明石町8-1
隅田川西岸を歩くと、一番目立つのはこの高層ビル。桜の季節は特に気持ちよく、手前の隅田川を眺めながらの手頃な散歩コースとして親しまれている。この写真の反対側から見た明治初期の情景を描いたのが、上に示す錦絵である。維新直後にしては、かなり進んだイメージで、西洋の匂いがする風景でもある。それもそのはずで、築地鉄砲洲は外国人居留地が置かれた場所だった。
大きな建物は外国人宿泊用の「築地ホテル館」。日本の本格的洋風ホテルの第一号とされている。この辺り一帯は今、聖路加タワー、聖路加国際病院、聖路加国際大学のある所だ。
江戸時代には各藩の藩邸があった地域で、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家の藩邸もあった。「明石町」は、播州明石(兵庫県)の風光明媚な「明石の浦」に因んだ地名で、隅田川に見える佃島を淡路島にたとえた場合、対岸のこの地は「明石」になる。これを「見立て」という。それほど景色も美しく、また赤穂藩の勢力もあったのだ。
この地域の歩んできた歴史は、他ではみられない特徴がある。江戸期、文明開化の明治期から現代まで、一本筋が通ったというべきか、脈々と続いている歴史がある──それは、学問や文化である。「時代の最先端」という言葉も加えたい。
不思議なことに、この地は学問や学校に縁があるようで、多くの学校の発祥地だ。「慶應義塾発祥の地」「立教学院発祥の地」「女子学院発祥の地」「立教女学院築地居留地校舎跡」「暁星学園発祥の地」「東京中学院発祥の地(関東学院の源流)」「雙葉学園発祥の地」「青山学院記念の地」「女子聖学院発祥の地」「明治学院発祥の地」。なお、各学校は皆ここにはなく移転している。
それぞれ築地から明石町にかけて、発祥の碑や特徴ある記念碑が集中している。それに説明も付いているので、あちこち見て回るのもいい。また、現在聖路加国際病院の隣には看護学部を置く聖路加国際大学があり、ネオ・ゴシック建築のチャペル(聖ルカ礼拝堂)の塔は、目立つ美しい建造物だ。
一つ、気付いたことがある。「聖路加」の正しい読みは「セイルカ」だった。「セイロカ」とずっと思い込んでいたのは筆者だけだろうか…(PCではどちらも変換できる)。「聖路加タワー」も「セイルカタワー」が正しいようだ。調べてみたら、英語では「St.Luke’s」、聖書に登場する医者の守護聖人「聖ルカ」がその語源という。地図には確かに「聖ルカ通り」とあった。
とにかくミッション系の学校が多い。それは、ここが外国人居留地だったことに起因する。海外から多くの人が訪れ、宣教師たちもやってきた。日米修好通称条約のもと開市されたこの地は、当初は横浜のようには開発が進まなかったものの、外国公使館が置かれ、教会や学校、病院、住居などの西洋建築が建ち並び、発展していくことになる。錦絵の中の往来は日本人の商売人も多く、かなり自由な雰囲気が読み取れる。
明治32年(1899)、条約改正(治外法権撤廃)で居留地は廃止となった。それまで明治初頭から西洋文化の入り口の役割を担った外国人居留地は、日本の文明開化に大きく貢献したのである。
文 江戸散策家/高橋達郎
表題の文字が書かれたプレート看板が、聖路加国際大学前の道向かいにある。その奥にこの碑はあった。
一隻の屏風を広げたようなデザイン、右側には人体図が彫られていて、解体新書の文字が読める。左側は碑文だが、何しろ彫りが浅くて読めないのが残念である。
ここに碑が建つのは、安永3年(1774)、解剖学の西洋医学書『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した『解体新書』がこの地で完成したことによる。
場所は豊前国中津藩(現大分県中津市)奥平家の中屋敷。蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らによって翻訳された。前野良沢は藩医で邸内に住んでいた。翻訳は困難を極めたようで、後になって杉田玄白が残した『蘭学事始』にはその苦労話が記録されている。
- 「慶應義塾発祥の地」の碑
時代が下って、安政5年(1858年)、福沢諭吉はこの地に蘭学塾を開いた。慶応義塾の始まりである。
同じ中津藩奥平家の屋敷内。こちらの碑文ははっきり刻されている。碑の横面には「その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る」と説明がある。中津藩は蘭学の必要性を強く感じていた先見性のある藩だった。
前野良沢は中津藩藩医、福沢諭吉は中津藩藩士、2人とも同じ藩である。隣り合う2基の碑は、時代が離れていても蘭学という糸で繋がっているようで、ここは「日本近代文化事始の地」と呼ぶにふさわしいと思えた。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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