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旧暦8月15日の月を中秋の名月と呼んで、われわれ日本人は愛でる文化がある。といっても、なぜかお月見に行ったという話は近頃あまり聞かない。月見のイベントなんてのがあればいいと思うのだが、見晴らしが利く適当な場所がないためか、残念である。
江戸には「月見の名所」がいくつもあった。有名なのは、隅田川や小名木川、不忍池、高輪などの川辺や海辺。湯島天神、九段坂の上、日暮里諏訪の台、愛宕山などの高台も挙げられる。
愛宕山での月見が特に喜ばれたのは、その眺望のよさ。江戸府内で一番高い山がここだった。海抜26メートル、高層ビルがない時代には、眼下には錦絵のように江戸の町と海が広がっていた。
実は、愛宕山よりも高い山もある。尾張徳川家下屋敷の庭園にあった標高44.6メートルの箱根山である。しかし、こちらは築山(人造の山)なので、自然の山としてはやはり愛宕山が一番高いということになる。箱根山は現在も都立戸山公園(新宿区)にあり、小高い山で気軽に登ることができる。
- 『芝愛宕山之図』
広重
- 『芝愛宕山見晴之図』
広重
月見をする場所は、長い石段を上った山の頂上にある愛宕神社の境内。お参りを済ませてから茶屋で月見の飲食、今でいえばビアガーデンといったところか。
『新版浮絵芝愛宕山遠見之図』北斎
愛宕神社は慶長8年(1603)、徳川家康が幕府を開くにあたり、江戸の防火・防災の守り神を祀って建立。主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)、火の神である。以後、幕府の保護を受け、社殿や仁王門など多くの建物が寄進された。しかし、火災や関東大震災、東京大空襲の度に焼失、現在の社殿は昭和33年(1958)、氏子中の寄付により再建されたものである。
月見で知られた愛宕山は、歴史上の舞台となった場所として覚えておきたい場所でもある。それは「愛宕山無血開城会談の地」だ。慶応4年(1868)3月、勝海舟(旧幕府側)と西郷隆盛(新政府側)が話し合った場所である。2人の会談場所としては薩摩藩屋敷ばかりを思い浮かべるだろうが、愛宕山でも会談している。
勝が西郷を誘って江戸市中を一望できる愛宕山を選んだのだろう。山頂で「この江戸の町を本当に火の海にするつもりか」と勝が西郷に言ったかどうかは分からないが、3月15日と決定されていた江戸城総攻撃は、前日になって回避されることになる。14日、総攻撃中止の最終談判と調印は、薩摩藩屋敷で行われた。
そういえば、家康建立の愛宕神社は防火・防災の神だった。火産霊命のご加護か、結果、江戸を火の海から守ったのである。
愛宕山の愛宕神社には、江戸時代を通して多くの人々が行楽や参詣に足を運んだ名所である。庶民にとって親しみある愛宕山は、明治33年(1900)、『鉄道唱歌』に歌い込まれた。
♬~汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として~♬
文 江戸散策家/高橋達郎
画像出典/国立国会図書館デジタルコレクションより
参考文献『愛宕神社御由緒』
何とも縁起のいい名前の石段が愛宕山にある。愛宕神社に参拝するには、参道の「出世の石段」を上がるのが正式のルートらしい。祭りの神輿もこの急勾配の石段を上ったり下りたりするのだ。その様子は、見ていて転げ落ちそうでヒヤヒヤする勇壮な祭りである。この「出世の石段」には逸話があった。
──寛永年間、三代将軍家光が増上寺参詣の帰りにこの地を通過した折、家光は山の上の美しい梅の花を欲し、採ってくるよう家臣に命じた。家臣がみな尻込みしているなか、四国丸亀藩士の曲垣平九郎(まがきへいくろう)なる者が騎馬で石段を駆け上がって梅花を手折って、また馬で石段を下って家光に献上した。喜んだ家光は曲垣を「日本一の馬術の名人」と褒め称えた。
信任を得た曲垣平九郎は、その後大出世をしたことから、石段は「出世の石段」と名前が付いたという話。
興味深いのは、騎馬で石段を上がることが、実際可能かどうかチャレンジした人間がいることだ。明治、大正、昭和の時代にも、成功例があることに驚く。
- 『愛宕山』豊国
国立国会図書館蔵
「出世の石段」は男坂と呼ばれ、少し離れてなだらかな女坂もある。江戸時代、男坂は男性参拝者専用だったわけではなく、女性も使えたのは錦絵を見ても分かる。ただ、斜度40度、86段もある石段は、出世を目指すにしても、かなりキツイことをお伝えしておきたい。
文 江戸散策家/高橋達郎
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