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コラム江戸

上州館林、「躑躅ヶ岡」の歴史と物語。

つつじが岡公園(群馬県館林市花山町3278)

群馬県館林市の「躑躅ヶ岡」は、国指定の「名勝」である。その「つつじが岡公園」では、毎年約100余品種・1万株のつつじが絢爛華麗に咲き誇り、4月上旬から5月上旬に催される「つつじまつり」には多くの観光客が訪れる。
「つつじが岡公園」は、中世・近世にあった館林城の城跡に造られた公園。つつじは、それぞれの歴代城主によって増やされ、多くの戦乱を経ながらも大切にされてきたことを知っておきたい。

館林藩は、天正18年(1590)、榊原康政(さかきばらやすまさ)によって立藩。康政は徳川家康の重臣、言わずと知れた徳川四天王の一人である。豊臣秀吉が小田原を制した後に、家康の関東移封に伴って、家康は康政に館林10万石を与えたのだった。関ヶ原の戦いまであと10年、江戸の東北方面を守らせたといえる。江戸時代の古図を見ると、城の周囲は広大な沼(城沼)になっている。
城沼の中に突き出ていた陸地があり、昔からヤマツツジが自生していて、人々は「つつじが崎」と呼んでいたようである。
そのツツジとの関連性は何とも言えないが、康政には「お辻」という名前の最愛の側室がいた。康政はお辻が亡くなった際、霊を慰めるために城沼南岸にツツジを植えさせたと語り継がれている。それが現在に繋がっていると思えば感慨深い。

歴代城主のなかで最も有名なのは、五代将軍となった徳川綱吉(とくがわつなよし)だろう。四代将軍徳川家綱の弟にあたる。寛文元年(1661)、25万石で入封。館林は将軍を輩出した地として重要視された。このころは既に多くのツツジが移植されていたようである。城を大改築・整備し、館林全体が繁栄を極めた時期だ。
館林城の遺構は残念ながらあまりない。本丸跡、曲輪の一部、土塁等、それに昭和58年(1983)に復元された「土橋門」がある。

  • 土橋門

「つつじが岡公園」には、長い時間をかけてツツジを守り育て、増やしてきた歴史がある。周辺の人々の協力もあった。江戸時代、城主交代時にはツツジを植樹することも行われている。さらに、遠隔地からも様々な品種がもたらされた。
一例を挙げると「大久保ツツジ」がある。大久保(現・東京都新宿区)のツツジ栽培は江戸時代から始まっており、天保期(1831-45)には最盛期を迎え、大久保はツツジの名所といわれた。栽培していたのは「鉄炮百人組」。火縄銃の撃ち手の本来の任務は徳川将軍の警護だが、副業としてツツジの商売が許されていたのである。明治になると、ツツジ栽培は一旦は衰退したものの、中頃には再び幾つもの「ツツジ園」が開園している。
館林が新宿とツツジで繋がったのは、大正4年(1915)のこと。館林町の篤志家、杉本八代(やよ)氏が大久保のツツジ苗を買い求めて公園に寄付、現在の「つつじが岡公園」の中にはこのツツジも含まれ、古木となって花を咲かせている。
そのような経緯から「つつじまつり」に合わせて、百人町鉄炮隊による火縄銃の演武が例年執り行われる(2024年は4月27日)。


  • 江戸幕府鉄炮組百人隊 演武  画/北原邦明

東洋一、世界一とも称される館林のツツジ。筆者も数回訪れているが、圧倒的なツツジの量と品種、毎回見事な景観に息をのむ。
ツツジは「躑躅」と書く難しい漢字。なぜ木偏でも草冠でもないこんな字を使うのだろう。音読みで「テキチョク」、足偏が付く2つの漢字には、足が止まり、佇んだり、足踏みをしてもがくという意味がある。「つつじが岡公園」を歩くと、立ち留まって観てしまうほどツツジが素晴らしいというふうに解せば納得がいく。

文 江戸散策家/高橋達郎

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