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コラム江戸

お札は、江戸初期から発行されていた。

『藩札[1]古典籍資料』 江戸後期の藩札  出典/国立国会図書館デジタルコレクション

2024年7月3日、日本銀行券の新札が発行された。20年ぶりというが、このお札にはどんな歴史があるのかをみてみよう。
通貨のうち、紙幣の歴史は貨幣と違って歴史は浅い。日本で最初の貨幣「富本銭(ふほんせん)」は、7世紀後半の鋳造とされているから、紙幣の登場はずっと後で時代が離れている。

江戸時代の紙幣として「藩札(はんさつ)」が流通したことは知られているが、その前身ともいえる「羽書(はがき)」という紙幣の存在に触れておきたい。慶長15年(1610)ごろ発行の「山田羽書(やまだはがき)」が最も古く、日本最古の紙幣とされている。
発行された場所は伊勢山田地方(現伊勢市)、伊勢神宮の近くである。この最古の紙幣は、日本銀行本店の向かいにある貨幣博物館で見られる(中央区日本橋本石町1-3-1)。
羽書は伊勢山田の町衆によって生み出されたものだが、それには理由があった。伊勢神宮と御師(おんし)の存在である。御師とは、伊勢神宮を参詣する人のいろいろな世話をする、半分は神職のような立場の人をいう。御師はお土産(天照皇大神宮のお札(ふだ)や伊勢暦)を携えて全国を回った。伊勢信仰を広め、伊勢参宮を勧め、門前の宿泊所(御師の邸宅)を提供し、飲食・宴席なども用意して参詣の手配をした。旅行代理店のような、旅館業のような、神社の営業のような仕事である。
「一生に一度はお伊勢さま」といわれ、江戸時代には多くの人が伊勢神宮に参詣し、周辺の経済は発展した。察しがつくように、そこに「山田羽書」が登場したのである。丁銀や豆板銀のなどの秤量貨幣(ひょうりょうかへい)を使うときに、お釣りとして使用されたのが始まりだ。つまり、小額銀貨の預かり証として発行されたものだ。羽書の「羽」は「端」数のお金という意味に思える。
考えてみれば、羽書は金貨、銀貨、銭貨などではなく、紙切れと言ってしまえばそれまでである。伊勢周辺で流通した「山田羽書」が明治初期まで約250年にわたり発行され続けたのは、まさに「信用」があったからに他ならない。羽書は短冊のように縦長で、その形状やデザインは、後に全国の各藩が発行した「藩札」に受け継がれていった。


  • 『藩札叢第1編』より
    国立国会図書館蔵

江戸時代には、写真のような「藩札」が各地で流通し、明治初期まで使われた。全国ほとんどの藩が発行したと思われるほど数が多い。藩札は幕府の許可のもとに発行できる、原則領内だけで通用する当時のお札だった。額面金額、発行者名、発行年、印影とともに、縁起の良い大黒様や鳥獣などの絵が描かれているものもある。
本来、藩札は幕府発行の貨幣との引き換えができることを建前としたものである。しかしなかには窮乏する藩の赤字財政補填が目的で、引き換え用の準備金が枯渇状態のまま乱発するケースもあり、問題を引き起こしている藩もあった。

近代的な貨幣制度が整うのは、明治4年(1871)の「新貨条例の制定」からである。お金の単位が「両」から「円」になり、明治政府は、兌換券(金と交換できる紙幣)や不換券(交換できない紙幣)を発行するなどして通貨価値の安定に腐心した。
明治15年(1882)には「日本銀行条例」を公布、中央銀行としての「日本銀行」が設立され開業した。この時が現在の日本銀行の始まりである。なお、紙幣の印刷は、初期は民間や外国に委託していたが、明治10年(1877)以降は全て国立印刷局が行っている。


  • 出典:国立印刷局HP(https://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/design10/)

今回の新1万円札を手にして驚いたのは、傾けると左縦にある肖像が「3Dホログラム(世界初)」で立体的に回転して見えることだ。最新の偽造防止技術という。他にも特長的なのは、指で撫でるように触れるだけでお札の種類が分かる「識別マーク」が付いたこと。1万円札は左右に、5千円札は上下に、千円札は右上と左下に、それぞれ11本の「/」が少し盛り上がっている。
新札を眺めていて気付いたことがある。日本銀行の読みは、ずっと「にほんぎんこう」だと思っていたが、「にっぽんぎんこう」が正しいようである。裏面に「NIPPONGINKO」と表記されていた。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献/『貨幣博物館』日本銀行金融研究所

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