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大河ドラマ『光る君へ』がそうであるように、『源氏物語』は千年の歴史を超えて現在に至っている。江戸時代の歴史を振り返ってみると、国学者の本居宣長による源氏物語の注釈書『源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)』が知られている。物語のなかの恋愛を宣長は、戒律的な仏教感・儒教感でなく「もののあわれ」として捉えた注釈書で、後の研究に影響を与えることになった。
- 本居宣長肖像 (野村文紹著)
国立国会図書館蔵
江戸後期には、大衆に読まれた柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』がある。挿絵付きの物語は、江戸幕府を憚って、光源氏を室町時代の殿様に見立てて書かれ、人気を集めたようである。
平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』は、日本文学史上珠玉の物語と言って異論を唱える人はいないだろう。
ただ、源氏物語の存在は知ってはいても、実際にこの長編を読み通したという人はあまり聞かない。現代語訳であっても、やはり現代人には難解なのだ。平安時代の宮中の生活もなかなか想像できないし、光源氏を筆頭にメインとなる登場人物が50人以上もいて、職階もややこしい。また、恋愛小説ともいえる源氏物語の背景は、貴族社会の結婚や夫婦のあり方が現代と違うのも大きな要因だ。
『光る君へ』の放映は、私たちと『源氏物語』の距離をぐっと縮めてくれた気がする。言い換えれば読みやすくしてくれた。一方で、『光る君へ』の主人公は紫式部(まひろ)、『源氏物語』は光源氏であり、構成自体も異なっている。当初からドラマの制作統括側から「源氏物語を描くことはない」という内容の発表があった。それでもドラマの後半に進むにつれて、『源氏物語』を映像化したと思われる(劇中劇)部分もあり、視聴者を楽しませてくれている。
- 藤原道長 『紫式部日記絵巻』
国立国会図書館蔵
この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば
『光る君へ』[44話]で道長が詠んだ“望月の歌”は、『源氏物語』のなかにはなく、藤原実資(ふじわらさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』にある。小右記は60数年間書き綴られた日記。実資は有職故実に明るい知識人、物言う公卿で、ドラマでは秋山竜次さんが名演している。
実資はこの道長の歌があまりにも素晴らしいので、道長から求められた返歌を詠まず、「皆でこの歌を唱和しよう」と切り抜けた。
道長の“望月の歌”は寛仁2年(1018)、三女・威子(たけこ)が後一条天皇の中宮(皇后)になった日の祝宴の席で詠まれた。長女・彰子(あきこ)、次女・妍子(きよこ)も皇后になった。これで道長は3つの地位に3人の娘を送り込んだことになる(一家三后)。
外戚として権勢を振るい、摂関政治の全盛期を迎え、この世はまさに我が物と言わんばかりに堂々と歌い上げる………と思いきや、道長は落ち着いたものだった。後ろ姿には悲壮感すら漂っている。
ドラマでは、宴席にいる誰も知らない紫式部と道長の関係を際立たせた“望月の歌”の新しい解釈を示している。この演出には、かつて2人が廃邸での逢瀬のとき見た満月の夜[10話]に伏線が張られていて、感動を呼び起こすシーンとなった。
「この世をば我が世とぞ思う望月の 欠けたることも無しと思えば」……あなたとの絆は私の人生そのものだ。あの夜の月のように今夜の月もどこも欠けていない、気持ちも変わっていない……こんな意味が込められているように思う。2人だけが通じ合える恋の歌であったかもしれない。
[44話]は『光る君へ』の名場面となった。紫式部は“望月の歌”を詠じる道長を感慨深く見つめていた。きっと、道長のなかに「光る君」を見たのだろう。
文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献/『大河ドラマガイド 光る君へ』
めぐり逢ひて 見しやそれとも分かぬまに 雲隠れにし夜半の月かな (紫式部)
(久し振りにお会いしたのに、あなたかどうか分からないうちにあっという間に行ってしまいました。まるで雲隠れした月のようでした。)
夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ (清少納言)
(夜が明けないうちに、鶏の鳴き声をして門を開けようとしても、男と女が出合う「逢坂の関」の番人は、決して通しはしませんよ。)
平安時代、文学史上傑出した2人の女流作家が出た。世界最古といわれる長編小説『源氏物語』を書いた紫式部と日本の三大随筆の一つ『枕草子』を書いた清少納言。2人がほぼ同時期に活躍したのは興味深い。
大河ドラマ『光る君へ』では、2人のやりとりの場面が出てくる。残念だが史実としては面識がなかったというのが定説である。というのは、宮仕えの時期が離れているからで、清少納言が先で紫式部の方が後になる。
清少納言は中宮定子(ちゅうぐうさだこ)に仕え、紫式部は道長の長女中宮彰子(ちゅうぐうあきこ)に仕えた。定子も彰子も一条天皇の正妻で「一帝二后」の時代、中宮同士は当然ライバル関係でも、清少納言と紫式部はそうでもなかったようだ。ただ紫式部は『紫式部日記』のなかで、清少納言を酷評してはいる。評判となった『枕草子』の方が『源氏物語』よりも成立が早いことから、紫式部は、より一層執筆に力が入ったと思われる。
多くの歌を詠んだ2人の性格を察すると──紫式部は、おとなしく消極的だが考え抜く「陰キャ」タイプ。清少納言は、積極的でキラキラした「陽キャ」タイプ。──そんな女性像を思い描くがどうだろう。
文 江戸散策家/高橋達郎
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