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コラム江戸

百姓から百万石の大名へ、豊臣秀長。

大和郡山城 (奈良県大和郡山市城内町)

戦国武将の三英傑と称される、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。天下に手が届きそうになった信長、天下を手中に収めた秀吉、最後に勝利した家康、個性豊かな面々である。3人の違いはどこにあるのだろう。その一つには出自がある。秀吉だけが百姓出身、他の2人は有力武家の継嗣で環境が全く違う。秀吉は最初、信長配下の小者身分のスタート。頼れる人もいそうもない、そこで3歳下の弟の秀長を呼び込んだ。秀吉・秀長兄弟は、合戦に加わりながら苦労して武家社会を学び経験を積んでいったのだった。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、秀吉を支え続けた陰の功労者、豊臣秀長を主人公としている。秀吉が歴史の表舞台で活躍し衆目を集めてきたのに対し、秀長に光を当てた大河ドラマは高く評価されている。秀長は、紀伊国(和歌山県、三重県南部)・和泉国(大阪府南西部)を任される大名となり、天正13年(1585年)に秀吉が関白となると、同年、大和国(奈良県)を加えて100万石の大名、まさに大大名となった武将である。


  • 豊臣秀長
    (奈良県大和郡山市提供、春岳院所蔵)

  • 豊臣秀吉
    (佐賀県立名護屋城博物館所蔵)

歴史上、秀長の動きが徐々にはっきりしてくるのは、永禄10年(1567)の秀吉の稲葉山城攻めや、元亀元年(1570)の姉川の戦いの頃だ。天正2年(1574)、伊勢長島一向一揆への出陣では信長の馬廻り(うままわり/乗馬の主君を警護)として先陣を務めた。
秀吉に同行し多くの合戦に出陣し、武功を上げた秀長。圧巻は、備中高松城攻めから京へ戻った「中国大返し」、そして「山崎の戦い(天王山の戦い)」においての活躍である。

秀吉は、天正10年(1582)、主君信長に謀反を起こした本能寺の変の情報が入ると、すぐさま明智光秀を討つために200キロ以上の道のりを京に向かった。備中高山城(岡山県)から姫路城を経て山崎(京都)へ。この有名な「中国大返し」は7日〜10日間だと歴史ではされているが、そんなことは本当に可能なのだろうか(船を使ったという説もある)。少人数で馬なら容易だろうが、鎧を身に着けた何万もの軍勢が徒歩で移動するのだ。
「中国大返し」では秀吉や軍師・黒田官兵衛ばかりが目立つが、秀長がいたからこそ実現した行軍だった。物資の運搬や兵糧の準備、宿泊や人足の確保を円滑に進め、道の整備も指揮した。秀吉の代行者として、秀長は現場を管理する経営能力も持ち備えていた。

  • 山崎の戦い
    『瓢軍談五十四場 三十三
    久吉道秀天王山をあらそふ』
    一英斎芳艶
    (国立国会図書館蔵)

「山崎の戦い」の場所は、摂津国と山城国の境目辺り(京都府)。別名「天王山の戦い」。「天王山」は「決着を付ける」の意味でよく使う言葉の由来だ。秀長はこの天下分け目の戦いにも布陣し、軍の中核を成す「中備え」として勝利に貢献している。秀吉は光秀を破ったことで、いよいよ天下取りを意識したと思われる。

その後の大きな戦いとしては「小牧・長久手の戦い」、秀長が総大将として出陣し長宗我部元親を降伏させた「四国平定」など。天正15年(1587)の「九州平定」は豊臣兄弟で出陣、秀吉は九州の西側から、秀長は南側から攻めて島津義久を降伏させた。
そして最後の仕上げは天正18年(1590)の「小田原合戦」。北条氏を破り、関東・奥羽を攻略して天下統一を成し遂げる。しかしその時、秀長は出陣できず郡山城で病床にあり翌年に亡くなるが、秀吉の天下統一を確認できたのはせめてもの救いだった。
秀吉が破竹の勢いで出世し、天下統一に向けて突き進めたのは秀長という最高の参謀がいたからである。秀長は後方で行政・財政を取り仕切り、多くの大名との調整役もこなした。秀長なくして秀吉の天下はなかっただろう。秀長は陰の天下人である。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献/『大河ドラマガイド 豊臣兄弟!』

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