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日本橋 『江戸名所橋尽』 広重
現代人は、安全に自由に旅ができる。海外でさえも、最強といわれるほどの信用力のある日本国パスポートで、一部地域を除けば自由に旅ができる環境が整っている。さて、江戸時代の人々は、どんな環境下でどんな旅をしたのか。代表的な旅であるお伊勢参りなどは、あこがれであり夢であった。その興奮とワクワク感は、初めて飛行機で海外に行ったときの感覚に例えてもよさそうだ。
一般庶民が比較的気軽に旅に出られるようになったのは、江戸開府からしばらく経ってからで、幕府が整備を始めた五街道に依るところが大きい。とはいっても、旅のための街道ではなく軍事的・政治的に必要であり、特に東海道は江戸─京坂間の情報伝達や物流にも寄与した。幕府は、五街道の起点を日本橋と定め、最初に東海道(日本橋─三条大橋)を寛永元年(1624)に完成させた。続いて日光道中、奥州道中、中山道、甲州道中を整備・完成。街道の一番目の宿場辺りの様子が、浮世絵に描かれている。

品川・日の出(東海道五拾三次)広重
板橋之駅(木曽街道六拾九次)英泉

千住の大はし(名所江戸百景)広重
四ツ谷内藤新宿(名所江戸百景)広重
旅行者が多かったのは東海道だが、物資輸送(馬)は日光道中が多かった。街道は、幕府の役人、武士、商人、あらゆる職種の人々が利用した。参勤交代の大名行列も通るため整備も進んだ。
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『東海道風景図会』 一立斎広重
道中風俗(街道を通る多様な旅人)が描かれている。老若男女、様々な生業をもつ人たち。右上から「行脚」(あんぎゃ/修行のため各地を回る人)、隣は「武家」(武士)、左頁の荷物を担いでいる人は「早宿次」(はやしゅくつぎ)、宿場から宿場へ荷物や書状を急いで運ぶ。他にも「旅商人」(たびあきんど)、「比丘尼」(びくに)、その隣の子どもは柄杓を持って抜け参り(お伊勢参り)のようだ。「留女」「くも助」「道場廻り」なども紹介されている。
江戸時代、庶民の旅を後押ししたのは何だったのか。旅に出られるには、それなりの背景があった。社会が落ち着いて平和になったこと。戦(いくさ)の時代はそれどころではない、安全性が高まったこと。そして生活にある程度の余裕ができたこと。街道が整備され、宿場もあって寝泊まりもできた。旅のインフラ整備が進んでいった時代、庶民は旅行案内書や各地の名所図会を携えて出かけるようになった。ただ、交通手段は徒歩である。江戸の人々は現代人に比べ驚くほど健脚であったことは注目に値する。江戸から日帰りで江の島まで出かけた記録もある。
文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献/『江戸の旅と交通』『守貞謾稿』
画像出典/国立国会図書館貴重画データベース

『東海道五拾三次 御油・旅人留女』 広重
道の真ん中で何やらもめている様子。旅の男はいじめられているようにも見える。周りの人は、ただ眺めているだけだ。広重は東海道35番目「御油宿」の情景をこのように描いた。御油では日常のことだったようで、驚くことはない。旅籠で働く女性が宿泊客の奪い合いをしているところだ。強引な客引きをする留女(とめおんな)や給仕やサービスをする飯盛女(めしもりおんな)だ。
御油宿の次は36番目「赤坂宿」だ。その距離は東海道の宿場間のなかで約1.7キロメートルと最も短い。旅人はどちらかの宿場に泊まることが多いため、赤坂でも宿泊客の争奪戦が繰り広げられたことだろう。
旅籠の内部、左の部屋では宿泊客に食事を用意している、右の部屋では飯盛女が化粧中か。
一方、この浮世絵が高く評価されているのは、庭のソテツの表現で、旅籠内部の景観を引き立てている。
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『東海道五拾三次 赤阪・旅舎招婦ノ図』 広重
当時の旅人たちに歌われた俗謡(流行り歌)があった。「〽御油や赤坂吉田がなけりゃ何のよしみで江戸通い」(これらの宿場に寄らないと江戸に行く楽しみがない)。この辺りはちょうど東海道の中ほどで、街道の有数な歓楽街となっていたようである(吉田は34番目の宿場)。
文 江戸散策家/高橋達郎
画像出典/国立国会図書館貴重画データベース
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