『浦島測量之図』右側のランタンを手にして座っているのが忠敬、その左にある機械とセットで緯度を測っている
宮尾昌弘寄託 呉市入船山記念館所蔵
現代に生きる私たちは、彼から学ぶべきところがあるように思う。50歳にして自分のやるべきことに情熱を燃やし、新しい人生を歩み始めた伊能忠敬。江戸時代に50歳といえば、もうそろそろという年齢である。老後の心配ばかりしている現代人は、もう少し勇気と希望をもってもいいのではないか。
下総の佐原村(千葉県香取市佐原)で酒や醤油の醸造業を営んでいた忠敬は隠居し、寛政7年(1795)に江戸に出て当時の天文方(てんもんがた/天文学や暦学を研究する幕府の機関)の高橋至時(よしとき)に弟子入りし、天体観測や測量の勉強に励んだ。
わが国初の日本全国の実測図を作り上げた伊能忠敬。17年をかけて全国を測量、歩いた総距離は約4万キロメートルといわれ、第一次測量から第十次測量(江戸府内)まで江戸と現地を往復した。測量の実績はその正確さから後年の測量技術や地図作りに多大な影響を与え、今も高い評価を得ている。没後に完成をみる『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』は彼の名を歴史にとどめることになった。
当時の測量の様子が絵巻物となって残されている。『浦島測量之図』は文化3年(1806)の春、瀬戸内海の島々を測量したときのもので、場所は現在の広島県呉市付近である。絵師は不明だが、忠敬に随行した絵師か広島藩の絵師によるものと推測する。
それにしてもこの絵巻は、どこかほのぼのとしていていい感じだ。描かれた人々は楽しげでさえある。戦国の合戦図・屏風や大名行列などの絵図を見ることが多いせいか、槍、弓、鉄砲などの武具もなく、のどかで平和な風景にことさら思える。
人足たちが鉄鎖(てっさ)を持って梵天と梵天の間の距離を測っている。
こんな大勢の人々を引き連れて回るのだから、かなり大掛かりだ。もちろん忠敬個人でできることではない。また、測量や地図作りとなると軍事的な側面から、その土地を治める領主が許すはずもなく、そこには幕府の全面的バックアップがあった。行く先々の藩には、通行の許可、測量への協力、人足の提供、地図の提供など便宜を図るよう幕府から通達が出された。「御用」の旗のもとに忠敬は全国を測量できたのである。
測量用御用旗
長さ二尺五寸七分、幅一尺二寸(約78cm×36cm)
出典:国立国会図書館貴重書画データベース
この時代は、鎖国下の日本にいよいよ外国からの風が吹き込み始めた19世紀初頭である。幕府は国防の観点からどうしても、全国の海岸線を把握し、正確な地図を作ることが急務だったのだ。
まず、ロシアの南下。寛政7年(1795)、ロシア使節ラクスマンが伊勢の漂流民、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を伴って根室に来航、通商を求めてきた。その後、イギリス、フランス、アメリカなども現れるようになる。多くは漂流民を日本に護送するという人道的な名目でのアプローチだった。太平洋を漂流した土佐の漁師、ジョン万次郎(中浜万次郎)を救助したのはアメリカの捕鯨船である。特に北方海域は鯨の漁場として注目され、捕鯨船は薪炭や水・食糧補給のための寄港地の確保が必要だった。
当時の海域はまだまだ未知の世界が残されていて、幕府も不明な点が多かった。このような外国の進出に危機感をもった幕府は、測量を進める一方で、文政8年(1825)には異国船打払令を出す。
嘉永6年(1853)ペリーの浦賀来航までには、まだ約30年の時間があった。軍備増強を図りながら鎖国から開国に向けて幕府も諸藩も揺れた。そのような時代背景が、伊能忠敬という逸材を歴史に登場させたのである。
文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『日本歴史図録 第4輯』(大正6-7年)
伊能忠敬銅像 (富岡八幡宮境内 江東区富岡1-20-3)
平成13年、伊能測量開始200年を記念して建立された。
伊能忠敬の銅像が、富岡八幡宮正面参道の大鳥居を抜けてすぐ左側にある。日本地図のモニュメントを背にして、測量に向かう凛々しい姿だ。
杖先小方位盤
(銅像の忠敬が右手に持っているもの、方位を測るために先に磁石台が付いている)
伊能忠敬記念館所蔵
忠敬は江戸に出て、富岡八幡宮近くの深川黒江町(現在の門前仲町一丁目)に家を構えていた。ここに銅像が建つ理由は、遠国に測量に出かけるとき、必ず弟子や供の者と一緒に富岡八幡宮を参拝したことによる。旅の安全と測量の成功を祈願したのだった。
そして寛政12年(1800)4月19日(新暦6月10日)、55歳にして蝦夷地(北海道)に向けて測量の旅に出発。このときは幕府も許可を与えたものの、費用の多くは忠敬の私財を投入した測量だった。第一次の測量結果が高く評価され、海防の必要性から幕府も国家事業として本腰を入れることになり、全国の測量につながっていくのである。
近代日本地図の始祖とも日本の測量の父とも評される伊能忠敬。『大日本沿海輿地全図』を残した偉業は、忠敬一人が成し遂げたものではない。全国の農漁村や代官所を巻き込んだ一大プロジェクトであり、忠敬一行を世話し測量を手伝った多くの人がいたことを忘れてはならないだろう。表に出る人とそれを支える人がいる。企業や団体の活動にもどこか似ている。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『富岡八幡宮御由緒』
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