西郷隆盛銅像(鹿児島市城山町4-36) 終焉の地、城山の麓に建つ(昭和12年建立、身長5.257m)
肖像画出典 『少年西郷隆盛伝』国立国会図書館貴重画データベース
鹿児島市の市立美術館前に建つ西郷隆盛銅像。東京上野公園の銅像とだいぶイメージが違って、陸軍大将の軍服姿、直立不動で堂々としている。地元では、彼を今でも「せごどん」と親しみを込めて呼ぶ。それは軍人の厳めしい雰囲気でなく、柔和な人間味あふれる響きである。とにかく地元の英雄で、鹿児島を訪れた折には、あちこちに西郷像、関連オブジェやアートが存在しているのには驚いた。鹿児島市内を中心に、西郷どんファンならぜひ訪れてみたい場所がいくつもあり、大河ドラマ『西郷どん』の放映も後押しして多くの観光客を鹿児島に呼び込んでいる。
“維新の三傑”とは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)を指す。明治維新の功績を称える言葉、あれ?あの人が入っていないと思う人もいるだろうが、一般的にはこの3人ということになっている。木戸が長州藩であるのに対し西郷も大久保も薩摩藩、3名のうち2名が薩摩藩である。
薩摩藩は近代国家形成過程において実に多くの著名人を輩出した。島津斉彬(第11代藩主)、五代友厚(初代大阪商工会議所会頭)、黒田清隆(第2代内閣総理大臣)、森有礼(初代文部大臣)……、13代将軍徳川家定の正室となった篤姫(天璋院)もいる。
江戸から遠く離れた外様の薩摩藩が、なぜ日本を動かすだけの力を持ち得たのかを考えてみたい。
第一に、江戸時代を通じて大藩であり続けたこと。全国的にも、薩摩藩 (七十七万石)を上回るのは、加賀藩 (百万石)だけである。
第二に、薩摩藩は日本の最南端に位置していたこと。海外貿易を盛んにしていたことがあげられる。鎖国下においても薩摩藩の間接統治する琉球は、中国との貿易が認められていた。つまり、物資とともに海外の情報がいち早く入り、植民地政策を推し進めるイギリス、フランスなどの西欧列強がいよいよ日本に進出してくる脅威を薩摩藩は感じ、準備を始めていた。一方幕府は国際情勢を最も把握していたにもかかわらず、アヘン戦争(1840年)で強国であるはずの清国がイギリスに敗れたときも、ペリーが来航する情報が入ったときも、列強の接近にどう対処するか結論を出せず弱腰だった。
第三は、藩主島津斉彬(なりあきら)の登場。そして、西郷どんを抜擢したことだ。斉彬は迫り来る列強の外圧に耐えられる薩摩や日本の国づくりに尽くした藩主だった。そのために西郷どんは、江戸、京都、大坂などを奔走し八面六臂の活躍をみせたのである。
嘉永4年(1851)、斉彬は藩主になるやいなや、富国強兵・殖産興業政策として「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」に着手する。集成館とは、日本初の洋式工場群で、その事業は製鉄・製鋼、造船、石炭産業など幅広く、平成27年(2015)には「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。
集成館事業の始まった場所は、藩主の別邸「仙巌園(せんがんえん)」の敷地内だった。この仙巌園、眼下の錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた雄大な大名庭園があり、大河ドラマでも度々登場している。西郷どんと斉彬が相撲を取ったシーンもこの庭園だ。
江戸の趣ある御殿が残されており、中を見学できる。藩主の部屋は全て節なしの屋久杉を用いたという立派な造りだ。殿様はどのように過ごしたのだろう。専用のバスルーム(御湯殿)やトイレ(御不浄)なども公開されている。浴室で使用する湯は外で沸かして運び入れる仕組みで、湯を用意する者が出入りする戸口が奥に見える。
御殿(明治17年改築)
御湯殿 (再現)
西郷どんは、斉彬亡き後は国主となる弟の久光(ひさみつ)に仕えることになるが、どうも2人は反りが合わなかった。西郷どんが余りにも斉彬を崇拝していたためか、幕府に対峙する姿勢は同じくするものの、どうもしっくりといかなかったようだ。大河ドラマでもそのような演出である。実際の久光は有能な人物と再評価されている一方で、少し分が悪い役回りのようにも思えた。
東京上野公園の高台に西郷隆盛像が建つ。愛犬(ツン)を連れた浴衣の着流し、庶民的な風体である。明治31年の除幕式のとき、妻の糸(いと)はこの姿がお気に召さなかったようだが、それには事情があった。この浴衣姿も、上野という立地にも様々な政治的事情、関係者の心情があったことが推測される。西南戦争(明治10年)では逆徒となるも、戦った明治新政府はかつての維新の同志である。
明治23年(1889)大日本帝国憲法発布のとき、大赦で正三位が追贈され西郷は復権した。それゆえ銅像建立の運びとなったのである。
上野の西郷どんは、今日も、無血開城された江戸東京の町並みを高台から望み、遠くに鹿児島を見ているかのようである。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『島津斉彬の集成館事業』尚古集成館
西郷南洲(隆盛)、勝海舟会見の地 (港区芝5-33)
西郷隆盛が歴史的に評価されるのは、やはり「江戸城無血開城」の功績だ。碑はJR田町駅近くにある。当時は薩摩藩の蔵屋敷があり、ここで新政府側の代表である西郷と、旧幕府側の代表である勝海舟が最終談判をした。江戸城総攻撃を翌日(慶応4年3月15日)に控え、ぎりぎりセーフで西郷は総攻撃中止の指令を出す。江戸は寸前で砲火を免れ、翌月に江戸城の明け渡しが行われた。
それにしても、江戸城総攻撃とは薩長は恐ろしいことを考えていたものだ。江戸城の攻撃は市中も惨禍を受け、100万の民が住む江戸を火の海にするとイコールではないか。「禁門の変」や「鳥羽・伏見の戦い」で焼けた京都の惨状を薩長は目の当たりにしているはずなのに……そこまでやるか、である。すでに「大政奉還」がされ「王政復古の大号令」も出されている段階である。結局、振り上げた刀の下ろし場所は、彰義隊を鎮圧した上野戦争や、会津戦争になってしまった。
他の東京の西郷どんゆかりの地も紹介しておきたい。
①愛宕神社(港区愛宕1-5-3)
②洗足池公園(大田区南千束2-14-5)
①社殿は石段を登った愛宕山の頂上にある。勝が西郷を誘い、府内で一番高いこの山上から江戸市中を見回した。②公園内にある西郷隆盛留魂(りゅうこん)詩碑。西郷の死を悼み、勝が自費で建立した碑で、西郷の七言律詩と筆跡が刻まれている。また、近くの「池上本門寺」は新政府軍の本営が置かれた所で、ここでも二人は会談した。江戸城無血開城に至るまでには何回もの会談・折衝の末に奇跡的に実現したものである。
文 江戸散策家/高橋達郎
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