文 江戸散策家/高橋達郎
江戸名所四季の詠『御殿山花見之図』広重 東京都立中央図書館特別文庫室 所蔵
「花見の人気のスポットは、どの辺りになるのでしょうか。」と、江戸時代(後期)の人に尋ねたら、きっとこんな答えが返ってくるだろう。「最初にくるのはやっぱり“上野”のお山かな。“飛鳥山”や“向島(むこうじま)”は気楽でいいねぇ、どんちゃん騒ぎもできるしね。西に行けば“小金井”がある。こっちは、泊まりがけで行くのがいい。大国魂神社や国分寺にお参りもできるしね。あと忘れちゃならないのが“御殿山”だ。ここは何てったって見晴らしがいい。気持ちよく海を眺めながらの花見もまたいいものさ」。
上記5カ所は、上野の寛永寺、王子の飛鳥山、向島の隅田川堤、玉川上水沿いの小金井、品川の御殿山。いずれも花見の名所だ。なかでも上野寛永寺の桜は江戸初期から名高く、庶民にも親しまれていた。他の名所は比較的新しく、八代将軍吉宗が盛んに桜を植え、花見の環境をつくってからのことである。
飛鳥山は吉宗の肝煎りで整備された。向島の桜は享保年間(1716~36)に、小金井の桜も吉宗が元文2年(1737)に植えたものである。御殿山には、寛文年間(1661~73)に植えられた桜があったが、火事による焼失もあったようで、吉宗が桜を植え復興している。
幕府が進めてきた環境整備は、吉宗の代になって庶民に花見風俗をもたらした。江戸中期の享保年間のことである。吉宗の功績は確かに大きいが、そこには享保という時代背景があった。あの有名な享保の改革は、幕府の緊縮財政下で庶民にも質素倹約を強い、派手なことは一切禁止のような禁令をこと細かに出した時代である。そんなことが長く続いたのでは、人々は面白くないのは当然だった。幕府は、人々の鬱積した感情を和らげ、桜を植えて広く一般に花見を楽しませたという見方もできそうだ。
江戸時代の花見というものは“飲めや唄えやの大騒ぎ”が相場と言っていいだろう。ただ上野の寛永寺だけは事情が違っていた。寛永寺は、住職を皇族が務める門跡寺院(もんぜきじいん)であり、徳川家の霊廟もあって、騒がしいことが憚(はばか)られたのである。 今の警察官や警備員に相当する、山同心(やまどうしん)が上野の山内を取り締まっていた。三味線や太鼓などの鳴物は禁止、弁当とお茶くらいで酒も禁止。暮れ六つ(日没時)の鐘を合図に、山同心は花見客を外に出し門を閉じるという徹底ぶり。ここでは酔っぱらいに絡まれるようなこともないため、老人や女性、子どもに人気があったようだ。お行儀の良い花見を求められたのは上野の寛永寺だけで、他は自由な空気に満ちていた。
これらの名所は現在も花見客で賑わう。ただ御殿山だけは、山そのものが削られているので当時と様子が違っている。この地には、江戸時代前に太田道灌(おおたどうかん)の屋敷があったと伝えられ、家康が建てた品川御殿があったとも言われている。小高い丘で風光明媚な場所とくれば、なるほど御殿にはぴったりだと思うかもしれないが、合戦を想定した場合、見通しが効き、砦として優位に戦える場所が選ばれたのだった。
同じことが道灌山(どうかんやま)にも言える。こちらも江戸城を築いた太田道灌の屋敷(出城、砦)があったことから名前のついた台地で、飛鳥山に続く道灌山(荒川区西日暮里)も花見の名所だった。さすがに時の権力者は、江戸を守るため要衝を押さえている。
御殿山は、江戸時代に入ると、歴代将軍の鷹狩りの休憩所として利用され、桜が植えられ、やがて庶民も楽しめるようになる。人々は200年以上も平和な時代を享受していた。そして幕府を驚愕させた事件が起こる。嘉永6年(1853)、ペリー浦賀来航。このときから御殿山は数奇な運命を辿ることとなった。幕府は海防強化策として江戸湊に11基の大砲を据えた台場を造ることを決定。海中を埋め立てるために、海に近かった御殿山を削り、切り崩して使ったのである。しかし、資金不足で途中で工事をやめたり、未着工で終わった台場もある。その代わりに陸続きの「御殿山下台場(砲台)」を完成させた。その場所は今「台場小学校」になっていて、周辺の道路が台場の形状の特徴である五角形に囲んでいる。
幕府は開国後、外国との交易が進むなか、御殿山に英国公使館の建設を始めた。ところが建設途中、攘夷派の長州藩士、高杉晋作や伊藤博文らにより焼き払われてしまう。この文久2年(1862)の御殿山英国公使館焼打事件で工事は中止、喝采したのは江戸市民だ。攘夷派を支持したというより、大切な桜を切り倒して外国の公使館を建てることが当時の人々の反感を買ったのだと思う。
御殿山と呼ばれた場所は、現在の品川区北品川3丁目~5丁目付近 (御殿山という住居表示はない)。この地域は、最新の設備を誇る高層ビル・ホテル、大使館や美術館があり、大きな邸宅が立ち並ぶ都内有数の高級住宅地になった。歴史的に桜との関わりが深い街だけあって、桜並木がきれいに整備されている。広重の浮世絵に見るような海は眺望できないが、御殿山ガーデンからJR大崎駅に向かって歩くのもいいだろう。桜並木が続く御殿山通り、「御殿山の花見」は「御殿山通りの花見」になったようだ。
『根岸桜』 (東京都府中市・根岸病院)
桜の多い一角を陣取り、花を見ながら宴会を催すのが一般的な花見のイメージである。確かに江戸時代からそうだ。桜の木が数多くあって、人が群集して賑やかにやるのが花見らしい花見かもしれない。その一方で、一本の桜を楽しむ花見も江戸時代からあった。「並木桜」の花見もいいが「一本桜」もまた違った趣があると思う。 江戸時代の考証・研究で知られる三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は著書で「一本桜の賞玩(しょうがん)は三十三桜の所在として名高かった」としている。江戸には33本の糸桜の大木があって、文化年間(1804~18)まで楽しむことができたという。糸桜というのはシダレザクラのことだ。桜はいずれも寺社の境内にあった。もともと一本桜の花見というのは、少人数で、詩歌に親しむくらいの風流な世界だったのではないだろうか。 時代が下るにつれて、桜も多く植えられるとともに花見は大衆化し、娯楽となっていった。威勢のいい江戸っ子は、高尚な一本桜よりも並木桜の花見を好んだのは容易に想像できる。
江戸時代の人々が楽しんだ桜は、現代とまったく種類が違うことはあまり知られていない。江戸時代はヤマザクラやエドヒガンと呼ばれる自生種の桜が主流だった。八代将軍吉宗が飛鳥山、向島、御殿山に植樹したのはこれらの桜だと言われている。江戸時代の人と同じ場所、同じ桜で花見をしていると思っている人には申し訳ないが、桜にも寿命がある。私たちが今見ているのは、写真のような「ソメイヨシノ」という園芸品種だ。江戸末期に染井村(東京都豊島区駒込、巣鴨の辺り)の植木職人がエドヒガンとオオシマザクラを人工的に品種改良したものだという。この桜は喜ばれて日本中に広がった。神社や寺、公園、街路、学校など、ほとんどがソメイヨシノではないだろうか。人気の理由は、花が大きく派手で、成長が早いことにある。
写真の桜は府中市の根岸病院にある。陽当たりのいい庭に、見事な花を咲かせて聳えている。「根岸桜」について常務理事の松村氏は「病院がここに移転してきてから80年ほど経ちますが、その時期の桜だと思います。満開の桜は勢いがあって、患者さんや来訪者を元気づけてくれているようです」と話す。歴史を感じさせるこのソメイヨシノの巨樹は、さすがに立派で見応えがある。 ※「根岸桜」は一般に公開されていないため、見学を希望する場合は病院受付で許可が必要。
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