長屋の木戸の様子 『浮世床』より 出典:国立国会図書館貴重書画データベース
現在の税金に相当するもの(以下税金)は、江戸時代にもあった。まず思い浮かぶのは年貢、つまり米だ。それでは、江戸に住み百姓でもない八っつあん、熊さんは税金をどうやって払っていたのだろう。二人のプロフィールはだいたい次のようだ。名前は八五郎と熊五郎、仕事は職人か小商人(こあきんど)で長屋住まいの江戸っ子。落語に度々登場する二人は特定の人物ではなく一般庶民である。
この絵は式亭三馬の滑稽本、『浮世床』のなかでもっとも知られている挿絵の一つ、長屋の暮らしが生き生きと描かれている。文化文政の頃のことだから、ちょうど今から二百年前の庶民の姿だ。八っつあん、熊さんの住む長屋は、このような木戸(入り口)を入った所にある。
八っつあんも熊さんも税金はなかったというのが正しいと思う。取得税も住民税も、当然消費税もない。税金と思われるものは一銭も、いや一文(もん)も払っていないのだ。長屋住まいの一般庶民から税金を徴収する制度自体がなかったのである。
では誰が税金を納めていたのだろう。それは八っつあん、熊さんが住む長屋とその土地の所有者である地主だった。ということは、家賃に税金が含まれていたとの見方もできるが、家賃はそれほど高くはない。1カ月の家賃は職人の日給で2日分程度だったという。長屋には様々なクラスがあり、収入に応じて相応の暮らしができた。収入における家賃の割合は、今より低い感覚である。
大江戸八百八町”は、江戸中期(18世紀前半)になるとこの数字を上回り、江戸後期には1,600~1,700ほどの町(ちょう)が存在した。これは町奉行の支配地が広がり、江戸が拡大したことによる。この町が江戸の行政単位で、町の地主たちが町の運営をまかされていた。つまり、八っつあん、熊さんは税金がないかわりに口を出すことはできず、町の運営権はもっぱら地主が有していたのである。
江戸の行政システムは町奉行を頂点に、町年寄(まちどしより)…町名主(まちなぬし)…地主というピラミッド型だ。町年寄は江戸開府以来、三家(奈良屋、樽屋、喜多村)の世襲。その下の町名主はランクがいろいろあったが、地主のうちの代表者(有力者)と位置づけられ、今で言うと区長あたりに相当する。その下の地主が実質的な町の運営者であり、合議で物事が取り決められた。町役人(町役人)とは、通常この町年寄、町名主、地主を指している。町奉行所からの町触(まちぶれ)もこの順で伝達された。
町の運営の仕事は多岐に及ぶため、地主は「家主(いえぬし)」と呼ばれる代理人を立て、家主で構成される「五人組」が実際の町政を担っていた。
地主が負担する、いわゆる税金の使われ方を見てみよう。町の経費を「町入用(ちょうにゅうよう)」と言い、その内訳は町によって特色があり様々だった。
いくつかの史料を総合してみると、およそ二分の一から三分の一が自身番屋(じしんばんや)と木戸番屋(きどばんや)の維持・管理費に充てられ多くを占めている。前者は、町の事務所であると同時に交番のような役目もあった。また建物の脇や屋根には火の見櫓があり、消防署のような役割も兼ねている。後者は、町境に警備のために設けられたまさに木戸で、木戸番が詰めた。
その他に、橋や道路・上下水などの維持管理費、町火消しの費用もある。祭礼にもお金がかかるし、ゴミ処理の費用も町の負担だ。町で発生するほぼ全ての費用を地主がその規模に応じて負担し、町入用を捻出しなければならなかった。
町入用のなかには幕府への上納金もある。規模の大きい商工業者(問屋、酒造業者、各種商業団体など)には運上金(うんじょうきん)が課せられていたし、免許を得て商売する業者には営業免許税のような冥加金(みょうがきん)もあった。他に公役(くやく)という人夫を出す制度があり、これが後に金納になっている。
「士農工商」のうち、八っつあん、熊さんは工や商に属する町人の身分である。しかし、この層の多くは町への納税義務はない。厳密な意味では、彼らは江戸の町に住んでいながらも町人ではない。町人とは町入用を負担する地主層までである。長屋の家主(=大家)も同じことで、納税義務はなかった。大家の意味が現在と違っているので注意したい。大家は長屋や土地のオーナーではなく、あくまでも地主から長屋の運営を任されていた管理人の立場だった。
八っつあん、熊さんたちには、税金をはじめ水道代のような公共料金もなかった。水道料金は、水銀(みずぎん)と呼ばれ、これも町で負担してくれた。長屋暮らしは貧しいものと相場は決まっている。彼らこそが江戸の一般庶民と言っていいだろう。お上(かみ)は、彼らには課税しなかったのである。
文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『浮世床』式亭三馬 『一目でわかる江戸時代』竹内誠監修(小学館)
寛永通宝(表・裏) 『銭形平次』の碑(左) 『八五郎』の碑(右)
庶民が日頃手にするのは、寛永通宝である。江戸時代にもっとも流通した貨幣だ。金貨や銀貨もあったが、長屋住まいの八っつあん、熊さんが小判(金貨)を見たり、使ったりすることは余程のことがない限りないだろう。いや一生なかったかもしれない。
その価値が気になるところだが、小判1枚(一両)は寛永通宝1枚(一文)の4,000~10,000倍に相当する(時代によって換算率が変動)。寛永通宝(一文)は現在の20~25円位に考えればいい。四文(しもん)の寛永通宝も流通していた。人々は、そばを食べるなら四文銭の寛永通宝を4枚、湯屋(銭湯)に行くなら2枚払って使っていた。
銭形平次がピュッと悪人に投げつけるのがこの寛永通宝。一文銭ではなく、一回り大きい四文銭の方である。こちらは浪銭(なみせん)と言って、裏面に波形がデザインされているのが特徴だ。実際に手に取ってみると、こんなものを投げてもどうにもならないと思えるが、それはそれとして勧善懲悪の時代劇は痛快である。しかし、火薬庫爆発寸前の状況で火縄(導火線)を、投げ銭でスパッと断ち切るシーンには驚いた。
「親分、てぇへんだ! てぇへんだ!」と、がらっ八(八五郎)が親分の住む長屋に駆け込んでくる。捕物帳らしい始まり方で物語が展開し、息の合った二人が鮮やかに難事件を解決していくストーリー、決め手は投げ銭、寛永通宝である。平次親分は明神下、神田明神の東側の坂を下った辺りに住んでいた。その縁で神田明神境内には寛永通宝を台座にした「銭形平次」の碑が建っている。その脇には「八五郎」の碑が寄り添うように建つ。
余談になるが、「八っつあん」も「がらっ八」も八五郎という名前。銭形平次は「大江戸八百八町」に目を光らせていた。語呂がいいせいか縁起をかつぐためか、八が多い。江戸の人々は八が大好きなのである。「八十八○○」も多くあり、豊作を願う米は「八十八」と書く。
銭形平次は実在した人物ではない。野村胡堂の383編にも及ぶ小説『銭形平次捕物控(ぜにがたへいじとりものひかえ)』のなかの主人公である。映画やテレビ時代劇となって、有名な捕物帳となった。銭形平次の碑は、出版社や映画製作会社、テレビ局、俳優、関係者らが発起人となって、昭和45年に建立されたものである。
作者の野村胡堂は小説の構想を練る際、工事現場の銭高組の看板を見て思いついたというエピソードが残っている。“銭高”のままでは商標上問題がありそうなので“銭形”(タカ→カタ)としたという。看板にあった銭高組の社章もヒントになったようだ。そのデザインは寛永通宝のような銭貨をモチーフにしている。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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