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コラム江戸

第91回 紀伊徳川家、八代将軍になった吉宗。

和歌山城(連立式天守)  「日本100名城」(財団法人日本城郭協会)の一つに選定されている。

歴代将軍のなかで八代吉宗は、最も人気の高い将軍の一人だ。家康は別格としても話題に事欠かない。とにかく改革者としていろいろなことをやった。だからTVドラマや映画でこの時代が取り上げられ、彼は頻繁に登場してきた。歴史の教科書にある「享保の改革」「足高の制」や「目安箱の設置」などもみな、吉宗治世下の出来事である。町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)の「大岡政談」の話も、この時代をいっそう賑やかに脚色している。

八代将軍吉宗を輩出したのは紀伊徳川家である。尾張徳川家、水戸徳川家と並び称された御三家(ごさんけ)の一角を担う。将軍家で跡継ぎがなかったときに備えて、家康の時代に御三家から将軍家を継げるように仕組みが整えられていた。吉宗が将軍に就いたのは、家康が没してからちょうど100年後のことである。
吉宗は紀伊藩二代藩主の四男として生まれ、藩主にさえほど遠い存在だった。長兄・次兄が相次いで亡くなり、三兄が藩主に就任。その兄も在職3カ月で亡くなったため、吉宗が宝永2年(1705)、紀伊徳川家を相続し五代藩主となる。半年のうちに親兄弟を失った吉宗22歳の藩主スタートは、とても心細かったのではないだろうか。またタイミング悪く、藩の財政は逼迫状態にあった。
就任直後からまずその財政を立て直そうと、倹約の奨励とともに新田開発や殖産興業に意欲的に取り組み、10年足らずで藩の財政再建に成功。──時を同じくして将軍継承問題が浮上した。七代将軍家継(いえつぐ)が8歳で夭逝したため跡継ぎがなく、今度は将軍職がまわってくるという不思議な巡り合わせだ。タナボタの将軍と言う人もいるが、実際は財政再建に成功した政治手腕が高く評価され、幾多の政争を乗り越えての将軍就任だった。
吉宗は紀伊徳川家から初めて将軍に就任した。幕末に近づくと紀伊徳川家からはもう一人、吉宗と同様に家茂(いえもち)が徳川宗家に養子に入り、十四代将軍になっている。

御三家・紀伊徳川家の居城は和歌山城である。元和5年(1619)、家康の十男頼宣(よりのぶ)が55万5千石を拝領して入城、紀伊藩が成立した。頼宣は城の拡張をはかり、ほぼ現在のような姿になったようである。広範囲に及んだ城郭の造営規模の大きさは、幕府から謀反(むほん)の嫌疑をかけられるほどだった。
現在の天守は、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで復元されたものである。最初の天守は弘化3年(1846)に落雷で焼失、御三家ということで幕府から特別に許可され数年後に再建された。当時は、幕府の許可なく城を勝手に造ったり修繕することは御法度だったのだ。その威風あふれる天守は国宝に指定(昭和10年)されるが、和歌山大空襲で失ってしまった。「ああ、なんてことを…」と思うのは、城郭ファンだけではないだろう。現在の和歌山城は、元和7年(1621)建造の「岡口門」(おかぐちもん)一棟を残すだけである(重要文化財)。和歌山城ほどの条件が揃った天守がもし現存していたなら、と思いを馳せる人は多い。

御三家のうち紀伊徳川家は、江戸から最も遠い地に位置している。幕府は開府当初からこの地を重要視していた。紀伊水道に面し、物資の海運上ここを押さえる必要があり、大坂は目と鼻の先である。また紀伊徳川家は「南海の鎮」(なんかいのしずめ)として西日本の大名を監視する役目も担っていた。

紀伊国は、もともと進取の精神に富んだお国柄だ。歴史を紐解けばそれは明らかで、いろいろな産業を生み出してきた。
醤油の産地として名高かったのは、紀伊国の「湯浅」。日本の醤油の発祥の地と言われており、銚子や野田の醤油が台頭してくるまでは、江戸ではこの下り醤油を消費していた。紀州みかんを江戸に運んで巨利を得たと伝わる紀伊国屋文左衛門もこの国の生まれ。
みかんは現在生産量全国第1位である。柿も生産量全国第1位。和歌山県北東部、紀ノ川両岸の丘陵地帯がその産地だ。また、江戸時代から梅の栽培が奨励され、明治時代には「南高梅」(なんこううめ)の栽培も始まった。梅の生産量も和歌山は全国第1位である。

そんな気風をもつ紀伊国に生を受け藩主になり、将軍になった吉宗。政治にもさまざまな工夫を凝らして実績を残した。今でも、地元和歌山のヒーローである。最近では「吉宗くん」なる和歌山市のゆるキャラも登場して楽しませてくれる。好きな食べ物は和歌山の食べ物、特に和歌山ラーメンが大好物らしい。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『歴史読本(第54巻6号)』(新人物往来社)

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

分間江戸大絵図 文政11年(1828) ▲上が北の方向 (右上は江戸城西の丸)

江戸の紀伊藩邸は、現在の元赤坂。

絵図の中でもひときわ広い敷地の「紀伊殿」と書かれた場所が紀伊藩の中屋敷、今は赤坂御所・迎賓館になっている。ところが絵図にはその斜め上にも紀伊殿と書かれた場所があり、しかも三つ葉葵の家紋付き。こちらが上屋敷(今は赤坂プリンスホテルの跡地)だ。しかし火事で燃えたため中屋敷を上屋敷として使用していた。

大名の江戸屋敷は主に、上屋敷、中屋敷、下屋敷に分けられる。上屋敷は藩主が住む所、中屋敷は子息や隠居が住み、下屋敷はさまざまな機能をもつ藩主の別宅──大ざっぱに言うとこうなる。通常は江戸城に一番近い場所に上屋敷があり、絵図を見ると各大名の上屋敷が江戸城を守っているかのようだ。現実的には登城に便利だからか。屋敷を分散したのは、江戸の町は火事が多く避難場所を用意しておく必要があったためだ。
紀伊徳川家の江戸屋敷や所有地は驚くほど多い。絵図からは「紀伊殿」の場所が数多く確認できる。おそらく30カ所以上はあっただろう。さすが御三家である。

参勤交代などで、大名に随行して江戸にやって来る下級武士を勤番侍(きんばんざむらい)という。今なら、東京への単身赴任者というところだ。藩邸内の長屋に住み仕事もするが、これがいたってヒマだったようだ。
紀伊藩の勤番侍、酒井伴四郎が幕末の江戸での暮らしを書き記した日記が残っている。戦いのない平和な時代を象徴するかのように、日記にはどこへ物見遊山に出かけたとか、何を食べたかとか、そういうことが楽しそうに書かれている。御三家・紀伊藩の武士だから多少は他藩より恵まれていたのかもしれないが、このような勤番侍は江戸に相当数いたはずである。
勤番侍は、江戸での消費生活者として、経済上大きな役割を果たしていたのである。彼らはまた、地方と江戸間の文化の伝達者であり、江戸の構成員でもあった。

文 江戸散策家/高橋達郎 協力/こちずライブラリ

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