『諸国温泉功能鑑』 東京都立中央図書館特別文庫室 所蔵
番付表の大もとは、力士の階級や順位を表した大相撲の番付表である。江戸中期以降には大相撲の人気も高まり、木版で大量に刷られて出回るようになった。それを真似て様々な番付表がつくられた。この「諸国温泉功能鑑(しょこくおんせんこうのうかがみ)」もその一つ。いわば、江戸時代の人気温泉ランキングだ。温泉番付には数多くの種類があり、明治期にも作られている。
幕末頃に発行されたこの番付の内容を見てみよう。東(右側)の上位から、大関「上州(群馬県)草津ノ湯」、関脇「野州(栃木県)那須湯」、小結「信州(長野県)諏訪湯」、前頭「豆州(静岡県)湯河原」「相州(神奈川県)足の湯(芦ノ湯)」がトップ5。二段目には「相州湯元湯(箱根湯本湯)」「岩城(福島県)湯元湯(いわき湯本湯)」。
西(左側)は、大関「摂州(兵庫県)有馬ノ湯」、関脇「但馬(兵庫県)城ノ崎湯」、前頭「予州(愛媛県)道後湯」「加州(石川県)山中湯」「肥後(熊本県)阿蘇湯」と続く。「豊後別府湯」も見える。
横綱という表記がないのは、当時の力士の最高位は大関だったからで、横綱という称号で最高位の格付けが決まったのは明治の後半である。草津ノ湯と有馬ノ湯が、東と西のそれぞれナンバーワンの温泉であることを示している。また、中央の行司、勧進元、差添人として書かれている湯は、別格の温泉くらいに考えたらいいだろう。実際この部分がないと、番付表として恰好が付かない。行司に「伊豆(静岡県)熱海の湯」が入っている。
温泉の番付表はいくつもの版元から発行され、広告的要素もあってご当地で作られたものもある。内容はいずれも確かなデータをもとにしたものではなく、版元の自由裁量で勝手なものだった。おそらく文句を言う人もいなかったのだろう。というのは、大相撲以外の番付表は戯作(げさく)でパロディーのようなものとして受け入れられていた。「ここ行ったことある」「この温泉行ってみたい」などと話しながら、楽しめればそれで十分なのである。ただ調べた限りでは「草津ノ湯」と「有馬ノ湯」は、どの温泉番付表を見ても不動でトップだった。それほど人気があったことがうかがえる。
この番付表の特徴は、タイトルにあるように温泉の効能が記されている。「瘡毒三病諸病によし」に始まり、「眼病」「子授け」など様々だ。「打ち身きり傷」はまだしも「万病に吉」とか「病人一切」などと都合の良い表記もある。
温泉は行楽的要素もあったが、当時は湯治目的が多かったのではないだろうか。病気を治すには、おまじないや寺社へお参りして治癒を願うのが一般的な時代、湯治は効果があったのだろう。温泉人気は、江戸の名医といわれた後藤艮山(ごとうこんざん)や『養生訓』を著した貝原益軒(かいばらえきけん)が、温泉療法の実効性を説いたことも一端を担っていた。草津ノ湯には江戸中期以降、年間1万人もの湯治客が訪れたという。
草津ノ湯の歴史(伝説)を調べてみると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が発見したり、奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)が発見(全国には行基の開湯伝説をもつ温泉が数多い)したりしている。鎌倉時代に源頼朝が発見したというのもあった。湯畑のすぐ隣に湧出している白旗の源泉にある高札(立て札)には「頼朝公が源泉地を改修して入浴したと伝えられている」という内容の説明が書かれている。この高札には草津町教育委員会の名前があるから、おそらく根拠があるのだろう。
こういう可能性がないわけではない。時代が下って戦国時代になると、戦いで傷ついた兵士は温泉を利用したようである。武田信玄の場合がそうだろう。甲州(山梨県)は温泉に恵まれ、今も「信玄の隠し湯」といわれる温泉がいくつか存在する。遠征で疲れた体を癒し傷を治療するには温泉はもってこいだ。戦国時代屈指の強さを誇った武田信玄。遠隔地での戦いを繰り返し、その行軍距離も相当なものだ。彼らの強さの背景には、温泉があったのかもしれない。
江戸時代の草津温泉には面白い歴史がある。徳川将軍が草津ノ湯に入りたいと思い、温泉を樽詰めにして江戸城まで運ばせたという。この破天荒な将軍は八代将軍吉宗、享保2年(1717)のことだ。温泉街の中央にある湯畑に、勢い良く源泉が湧き出ている場所がある。そこを囲っている木の枠を「将軍お汲み上げの湯枠」と呼ぶ。不思議に思うが、今も300年間温泉に浸かったままの木枠を見ることができる。近くには「徳川八代将軍御汲上之湯」の碑があった。
番付表をよく見ると、その多くは今でもこんこんと湯が湧き出ている有名な温泉が多い。草津ノ湯は江戸時代から将軍が目をつけるほどの名湯だった。今も日本を代表する名湯と言っていいだろう。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
草津温泉(草津最大の源泉 湯畑)
弥次・喜多のご両人は滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に登場する人物である。東海道を旅したはずの二人がなぜ上州草津ノ湯に入ることになったかには訳があった。
本の作者は十返舎一九、彼は相当ノリのいい人物だったと思える。弥次・喜多が繰り広げる道中の滑稽噺が大いにウケて、本はベストセラーに。物語は江戸から東海道を西へ、伊勢神宮を回って京都・大坂まで道中を面白可笑しく旅をするという筋立てである。本の評判に気を良くした一九は、二人に金比羅や宮島参りもさせることにした。『金比羅参詣 続膝栗毛』と『宮嶋参詣 続膝栗毛』で、これがまたヒット。一九はさらに波に乗って次の『続膝栗毛』を著す。大津から木曽街道に入り、善光寺を経て草津温泉、中山道で江戸へというルートを考えた。草津ノ湯は『上州草津温泉道中 続膝栗毛』(文政3年/1820)に収められている。このなかでも弥次・喜多は、温泉宿に泊まりながら珍妙な事件を引き起こして読者を楽しませてくれる。一九の膝栗毛関係の滑稽本は、享和2年(1802)から文政5年(1822)まで 21年もの歳月をかけて順次発刊されたものである。
江戸中期以降は、人々の旅行熱が高まったと言っていい。社会が安定し生活にも余裕ができ、旅人を受け入れる側の環境も整いつつあった。旅がブームとなっていく。それを煽ったのは旅行案内書としても喜ばれた『東海道中膝栗毛』であり『続膝栗毛』だった。
草津の湯治客も増えたのは当然である。またその後も現代に至るまで著名人が大勢訪れている。十返舎一九が訪れたのは文政2年(1819)ことだ。
湯畑の周囲には石でできた柵があり、その一本一本には草津を訪れた著名人の名前が刻まれている。それを見て歩くのも草津温泉の楽しみ方の一つだろう。
文 江戸散策家/高橋達郎 写真 Endo-k
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