『江戸名所図会』中川口 (建物の右側に突き出ているのは槍、番所であることを示している)
建物の中に3人の侍。ただ座って外を向いているが、庭には対面者がいない。どうやら川を往来する船を眺めているようだ。
ここは「中川番所」といって、江戸を出入りする船や乗員を取り調べる幕府の役所、言い換えれば川の関所である。中川番所の長官は中川番と呼ばれ、旗本(将軍直属の家臣)が任命された。日頃の業務を執り行ったのは、旗本の家臣たちである。
この仕事、川の関所である以上、厳重な警備のもとに厳しく人や荷物のチェックをするシーンが想像されるが、実際はいたってのんびりしたものだったらしい。この図会を見ても関所としての緊張感はまるでなく、番所の前を自由に通行しているかのようにも見える。江戸後期ともなれば、中川番の仕事はそうとうヒマだったらしく、時間をもて余す役人を揶揄する川柳がいくつも残されている。これも、戦いのない平和な時代が長く続いた証しだろう。
「中川番所」の位置を確認しておこう。図会の手前を東西に流れるのは小名木川、左奥からこちらへ南北に流れているのが中川だ。小名木川は現在も中川口と隅田川を直線で結んでいる。小名木川と中川が合流する所に「中川番所」があった。小名木川は中川と交差し、図会では分かりにくいが船堀川(新川)となってさらに東に流れていた。船堀川は江戸川に合流し、中川は江戸湾に注いでいた。
図会の本文には「中川 隅田川と利根川の間にはさまれて流るる故に、中川の號(ごう)ありといへり」と紹介されている。
中川口は、川の十字路のような場所で関東の奥川筋と江戸の掘割網を結ぶ地点、水上交通の要所だった。
奥州方面から太平洋を経て江戸に運ばれる荷は、大きな河川を経て中川口から小名木川へ入り江戸を目指すのが一般的だった。大量の物資を積んだ大きな船は、大海原を航行するにはいいが、10トントラックが街の路地に入れないように、川には入れない。その都度川幅や深さに応じた船に荷を積み替える必要があった。図会の左上には中川に浮かぶ帆を揚げた高瀬船(たかせぶね)が見える。これから小名木川に向かうのだろうか。このような川船の積荷も、どこかの河岸で積み替えられてきたのかもしれない。
番所にとっても、小名木川くらいの川幅なら船の取り調べもしやすかったのだろう。川を大きく深くしなかったのは、幕府側の物流上の、あるいは軍事上の戦略もあったのではないかと思う。
実は小名木川は開削した運河で、自然にあった川ではない。徳川家康が天正18年(1590)関東入府の際、都市づくりの一環として物流のための水路をあちこちに造ったことが始まりである。小名木川もその一つ。当初は年貢米や塩など、房総方面からの物資を運ぶのが目的だった。
100万人を超える人口を抱える江戸は、当時(江戸後期)世界一の大都市だった。つまり大消費地であり、全国から米や物資が運び込まれた。陸運は五街道やそれに次ぐ街道網が整備された。
海運は、大坂と江戸を結ぶ「南航路」に加え、「東廻り航路」(酒田─日本海沿岸─津軽海峡─太平洋沿岸─江戸)と、「西廻り航路」(酒田─日本海沿岸─下関─瀬戸内海─大坂)が整備された。運ばれてきた物は、米をはじめとする穀物・干鰯(ほしか)・油・塩・醤油・酒・煙草・反物や呉服、全国各地の特産物など。
海上輸送が注目されたのは、陸上輸送より一度に大量の物資を運べることと、各藩の領地を通行する煩雑さもなかったからだ。また、江戸は水の都でもあり、海運が便利だったこともあげられる。
江戸へ向かう海からの物流をまとめると、「南航路」は下田、浦賀を通って江戸湾に入るルートだ。こちらには「浦賀番所」が置かれた。「東廻り航路」は同じく浦賀を通るルートも利用されたが、多くは銚子から利根川を上り、江戸川や中川を下り、小名木川を経て江戸に入るルートが選ばれた。
小名木川ルートの優位性は地図を見ても明らかで、房総半島をぐるりと回る航海上の危険性を回避できたこと、時間の短縮、経費の節約になったことによる。
5㎞に満たない人工の川、小名木川が物流の大動脈として機能し、江戸の経済や食文化を支えてきたことを知っておこう。
文 江戸散策家/高橋達郎
協力 江東区中川船番所資料館
中川船番所資料館(江東区大島9-1-15)
現在の小名木川(中川口から西方を望む)
寛文元年(1661)に出された高札(こうさつ)の文言が残されている。その内容を現代語で簡単にまとめてみた。
・夜間に江戸からの出船は禁止、入船は許可。
・番所の前を通過するときは、人は笠や頭巾を脱ぎ、
船の戸を開けて中を見せること。
・女性の通行は証文があっても一切禁止。
・鉄砲は3挺までは取り調べの上許可、それを超える
数の鉄砲は別に指示を受けること。武具も同様。
・人が入るほどの入れ物は中を確認する。小さな入れ物
は確認しない。不審な点ある場合は船を留め置く。
・囚人や怪我人などは、証文がなければ通行禁止。
夜間に入船を認めたのは、魚介類や生鮮食品を江戸に輸送するためだった。女性は、結婚や神社仏閣への参拝目的であれば許可された。この高札は江戸初期のもので、時代が下るにつれてだんだん規制もゆるみ、人々は比較的自由に船で行き来できたようである。
ただ鉄砲には目を光らせていた。鉄砲玉、鉛、硫黄や塩硝(火薬の原料)も同様だ。これらは事前に幕府に届けて通行許可をもらうことになっているが、どうやって荷や船の中をチェックしたのか気になるところである。
小名木川は江戸の後期には、花見や月見、行楽に利用され江戸の名所となっていく。広重は「名所江戸百景」で『中川口』『小奈木川五本まつ』『深川万年橋』の浮世絵を描き、北斎もまた、「冨嶽三十六景」のなかで『深川万年橋下』を残している。
小名木川に当時の面影はないが、遊歩道を歩いてみるのもいいだろう。すぐ横には、当時の中川番所の再現ジオラマ(原寸)を展示した資料館がある。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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