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コラム江戸

第94回 家族の絆が支えた、吉田松陰の偉業。

松下村塾(山口県萩市の松陰神社に保存されている建物の再現) 世田谷区若林4-35-1松陰神社境内

幕末の思想家、教育者である吉田松陰。「松下村塾」を主宰し、その私塾から、やがて明治維新を成し遂げる逸材が育っていったのは多くの人が知るところである。
松陰はそれほど特別な人だったのだろうか。長州(萩)藩の武士の家に生まれた松陰。杉家の次男(父・百合之介)として誕生、毛利家に仕える藩士の家柄といえば聞こえがいいが、家禄は26石というもの。下級武士の家庭で、半士半農を余儀なくされた貧しい暮らしのなかで育っている。さらに武家の次男という環境は心もとない。言うまでもなく、武家社会では長男に万が一があった場合の備えのポジションである。
ただ他と違っていたのは、松陰は学問や教育の面では非常に恵まれた環境にあった。松陰が学問の道に進んだのもうなずける。働き者の百合之介は学問好きであったし、同居していた叔父もまた学問で出世した。叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)は松下村塾の創始者でもある(天保13年/1842)。

恵まれたのは学問の環境だけではなかった。それは家族の絆ともいうべき、親、兄弟、親戚等の家族愛にいつも支えられていたことだ。そこに焦点を合わせたのが大河ドラマ『花燃ゆ』である。
松陰を語りながら、実妹・文(ふみ)を主人公とした家族愛に満ちたストーリーだ。松下村塾を支え、家族を支えていく姿を幕末から明治にかけて生き生きと描いている。

文は、松陰、夫・久坂玄瑞(くさかげんずい)亡き後、十四代長州藩主・毛利元徳の正室・安子(やすこ)に女中として仕え、また長男・興丸(おきまる)の守役(もりやく)を務めるほどの人物だった。守役とは、若様の養育係、教育係をいう。
ドラマのなかで、あるとき実家から父危篤の知らせが入り、文が宿下がりをするシーンがあった。最初は、守役の務めを果たそうと宿下がりを固辞していた文だったが、安子は文をたしなめ実家に帰るよう命じる。仲の良い文の実家の様子を日頃から聞いていたからだった。姫の境遇では体験できない、家族が寄り添って暮らしていく素晴らしさをよく理解していたのだろう。ドラマの脚色もあるにせよ、文の家族は人がうらやむほどだった。

全国を遊歴し活動派だった松陰。それができた背景にいつも松陰の志を尊重する家族の支えがあった。脱藩したときも、ペリー再来時に密航を企て失敗し罪人となったときも、藩の牢獄に入ったときも、家族は彼を応援し見捨てなかった。当時の武家社会では縁を切るのが普通だろう。江戸に護送され伝馬町(てんまちょう)牢屋敷で最期を迎えるまで見守ったのである。
もちろん松陰の活動を支えたのは、長州藩もそうだが取り巻く同志・塾生の力が大きい。松陰が蒔いた種、松下村塾を巣立った門下生たちは、やがて明治維新の原動力となって花開いていく。

一方、文(当時の名前は美和子)は明治16年に再婚、41歳。相手はもともと松陰の盟友だった義兄の楫取素彦(かとりもとひこ)、前名は小田村伊之助だ。楫取家は姉・寿(ひさ)の嫁ぎ先で、病の床に伏す姉を懸命に看病したという。その甲斐もなく姉は亡くなり、文の行く末を心配した母・滝(たき)が、楫取との再婚を後押ししたのだった。文に新しい家族ができたのである。
楫取素彦は維新後、初代群馬県令(現在の県知事)になっていた。群馬の養蚕業などの産業発展に尽くし、教育や文化財の保護にも情熱を注いだ人物である。そんな楫取を文がまた支えていく。
世界文化遺産に登録された「富岡製糸場」を私たちが今見られるのは、楫取の努力のおかげといえるだろう。

群馬県庁昭和庁舎2階(前橋市大手町1-1-1)に、“初代県令・素彦と文”「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」が設けられている。当時の様子を知る様々な展示物、県令執務室の再現や関係映像も上映されている。期間は平成28年1月31日まで。
http://gunma-hanamoyu.com/
(ぐんま「花燃ゆ」プロジェクト推進協議会)

文 江戸散策家/高橋達郎

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

松陰神社(世田谷区若林4-35-1)

東京都世田谷区の松陰神社。

松陰神社は生まれ故郷の山口県(萩市椿東1537)にあるが、東京にもある。こちらには松陰の墓所があり、松下村塾の建物のレプリカが公開されている。ブロンズの「吉田松陰先生像」も鎮座する。  最寄り駅は東急世田谷線の「松陰神社前」。大河ドラマの影響で、学問の神様として参拝者も増えているようだ。すぐ隣は国士舘大学世田谷キャンパスがあり、ゆっくりお参りをして散歩したくなる場所である。  神社のすぐ近くに豪徳寺(ごうとくじ)がある。安政の大獄で松陰や多くの志士たちを粛正した大老、井伊直弼の菩提寺である。敵対する二人の墓所がこんなに近くにあるとは何の因果だろうか。偶然とはいえ驚きである。

安政6年(1859)、安政の大獄に連座した松陰は、最初は小塚原の回向院に葬られた。その4年後、文久3年(1863)に墓所を移転改葬。この地が選ばれたのは、長州藩の所領で藩主別邸があったためだ。改葬は松下村塾の門下生だった高杉晋作、伊藤博文等によって行われた。
後に明治15年(1882)、門下生たちによって神社が創建された。現在の社殿は昭和初期に造営されている。

松陰をまつる神社は他にもある。日露戦争で活躍した乃木希典(のぎまれすけ)将軍を祭神とする乃木神社(港区赤坂8-11-27)、その境内にある「正松神社」だ。
こちらの祭神は、松陰の叔父で松下村塾創始者である玉木文之進(たまきぶんのしん)と吉田松陰。昭和38年(1963)、二霊とも萩の松陰神社から勧請した。
調べてみると、希典は文之進を慕い学問を学んでいる。また、玉木家と乃木家は何代も前からの姻戚関係にあった。玉木家は希典の弟を養子に迎えてもいる。幕末の志士と明治後期の英雄が何かの縁でつながっている。人と人を巡り合わせる歴史は、何とも不思議で面白い。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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