「水戸黄門 助さん 格さん像」(茨城県水戸市 JR水戸駅北口)
♪じーんせい楽ありゃー、苦もあるさー♪ このあっけらかんとした空気感は、いったい何だろうとずっと思っていた。おなじみ、TVドラマ『水戸黄門』の主題歌である。BSの再放送を見てふと考えてみた。幼少期にはまったく興味のなかった番組だったが、最近はそうでもない。妙な安心感があるのだ。黄門様が諸国漫遊して事件を解決する勧善懲悪のお決まりのパターン、筋書きはサスペンスのような引っかけも手の込んだ演出もなく、最後はまたこの主題歌とともに、めでたしめでたしで、みんなの笑顔で完結する。
この歌は江戸時代に生きた人々の人生観をよく表しているように思う。かなりノーテンキな内容だが、そこに江戸庶民の「諦め感」を感じてしまうのだ。希望がもてない諦め感ではなく、どうしようもない不安からくるものでもない。現代人とは違う、江戸庶民特有の明るい諦め感である。暗さがないことが救いである。
水戸黄門(1628-1700)の漫遊記はいつ頃からあったのか調べてみると、江戸中期には『水戸黄門仁徳録』という書が成立している。 この本がどうやら始まりらしい。光圀が亡くなってから約50年後のことだ。光圀の言行録である『桃源遺事』や、その他の伝記・逸話を参考にして創作したものだという。つまり、小説といったほうが近い。その後多くのいわゆる黄門漫遊記が書かれ、講談や歌舞伎の演目となり、映画や時代劇となって現代につながっている。
『義公黄門仁徳録』
写本・年代不詳 (筆者蔵)
徳川光圀は、御三家の一角を担う水戸徳川家の二代藩主。初代頼房の三子、家康の孫にあたる。他の御三家との違いは参勤交代がなかったこと。尾張徳川家も紀伊徳川家も参勤交代が義務付けられていた。藩主が常に江戸に居住して将軍を補佐する大名家を「定府(じょうふ)」という。他にも参勤交代が免除されていたのは、「老中」「若年寄」「寺社奉行」などの役職を持つ大名で、これらは在任期間中のみの免除である。
光圀は水戸に時には帰藩もしたが、隠居するまでは江戸小石川の藩邸で暮らしていた。諸国を漫遊したことはない。水戸から江戸に戻る途中、房総から海を渡って熱海や鎌倉を巡ったこと、祖父を祀る日光東照宮に参拝した程度の記録しか残っていない。
黄門様(光圀)が諸国を漫遊してないとすると、ちょっとガッカリしてしまうが、「助さん」「格さん」はモデルとなった人物がいる。「佐々木介三郎(ささきすけさぶろう)」と「安積覚兵衛(あさかかくべえ)」だ。この二人は光圀に仕えた学者である。
歴史書『大日本史』は明暦3年(1657)光圀によって着手され、助さん・格さんは編纂事業の中核を担った人物で、各地を回り史料調査をしたものの、ドラマのような剣客ではなかった。光圀自身も学者大名の側面が強く『大日本史』の編纂に生涯情熱を注ぎ、存命中に一応の完成をみる。その後も編纂事業は拡大されて引き継がれ、最終的な完成は明治39年(1906)、二百数十年を要した。ここに水戸徳川家の底力をみるのである。特に明治維新後も続けられたことには驚くばかりだ。
黄門様と親しまれてきた光圀。黄門と呼ばれるのは、隠居時には「権中納言(ごんちゅうなごん)」に任じられ、中納言は唐名(中国唐の官職名)の黄門に相当したからである。わが国では、古くから官職名で人を呼ぶ慣習があった。したがって、歴代の水戸徳川家藩主には何名も中納言が出ているので、水戸黄門が他にもいたことになる。実際は光圀が水戸黄門の名を独占している形であるが…。
水戸を訪れて驚いたことがある。何と黄門様の銅像が多いことか。JR水戸駅を降りれば、まず助さん・格さんと一緒の黄門像が迎えてくれる。水戸城跡三の丸にも、偕楽園下の千波湖畔にも、また、水戸市役所、水戸市民会館にもある。南町や大工町周辺にもあり、まだまだありそうだ。光圀公と斉昭公を祀る常磐神社「義烈館(ぎれつかん)」には木像もあった。この人気は普通ではない。
仁政を行った名君として光圀の知名度は高く、黄門様として慕われ評判も高かった。それはこんな狂歌が流行ったことからも分かる。「天が下 二つの宝尽き果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」。国の宝が二つなくなった。産出量が減った佐渡の金山と黄門様、という意味で、それほど光圀の死は惜しまれた。
政治面でも文化面でも数々の業績を残した徳川光圀は、まさに「義公(ぎこう)」と呼ぶにふさわしい人物だった。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
水戸藩らーめん(市内数カ所の中華店で食べられる)
正解は水戸黄門。クイズによく出る問題で、真偽はともかくこの答えに特に異議はない。ご当地の「水戸藩らーめん会」では“日本で初めてラーメンを食べたのは黄門さまです”と言い切っている。水戸検定(水戸検定実行委員会/問題監修 茨城大学)の問題を見ても、光圀公は好奇心旺盛で、文献上日本で初めて食したとされる食べ物として、ラーメン、餃子、チーズを挙げている。
ラーメンを日本に伝えたのは、中国明の儒学者「朱舜水(しゅしゅんすい)」(1600-1682)という人物。明朝の滅ぶときに、長崎に亡命していたところを寛文5年(1665)、光圀が水戸藩に招聘したのがきっかけとなった。朱舜水は光圀の儒学の師であり、水戸藩に中国の知識・学問、情報をもたらした。その学問は、水戸学として幕末まで思想的影響を与えることになる。特別な人材であったのは間違いなく、朱舜水の墓が水戸徳川家の墓所にあることからも伺える(一族以外でただ一人)。
あるとき、光圀は自ら打ったうどんを朱舜水に振る舞ったことがあり、それを喜んだ朱舜水が今度は中国麺の作り方を光圀に教えたのだという。隠居後も中国麺作りを楽しんでいたようで、前述水戸藩らーめん会の説明パネルには“元禄10年(1697)、西山荘(せいざんそう)に訪ねてきた日周、日乗というお坊さんや、家臣たちに中国麺をご馳走した記録も残っています”とあった。西山荘は光圀の隠居所、日周・日乗は日蓮宗の高僧である。
西山荘 文政2年(1819)再建(常陸太田市新宿町590)
麺は小麦粉と藕粉(おうへん)を合わせたもの、藕粉とは蓮根から採ったデンプンだという。スープは中国から輸入した乾燥豚肉から取った。五辛(ニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ショウガ)を添えて食べる。
そば汁のようなものだったらしいが、これが日本のラーメンの原点か。「水戸藩らーめん」は当時のものを再現したとのことで、水戸に行けば美味しくいただける。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
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