上杉鷹山公之像とその傍らの鷹山公詠歌の碑(上杉神社/米沢城本丸跡)
肖像画出典 『鷹山公偉蹟録』国立国会図書館貴重画データベース
“江戸時代の大名(藩主)で名君を3人選ぶとしたら誰になるか?”を歴史に明るい友人に尋ねてみると、必ず入ってくる人物がいる。それは「上杉鷹山」である。真っ先に鷹山を挙げる人もいる。米国第35代大統領ジョン・F・ケネディは『政治家で最も尊敬する人は上杉鷹山である』と答えたというエピソードもある。
米沢藩中興の名君と称される鷹山。米沢藩(山形県米沢市)の第九代藩主、上杉家第十代となった人物である。上杉家初代は謙信、越後(新潟県)から会津に国替えにより移ったとき謙信はすでに亡く(越後 春日山城で病没)、上杉家二代景勝(かげかつ)が会津藩、後に米沢藩主となった。
鷹山が詠んだ『なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』の和歌はあまりにも有名である。これこそ、鷹山の変革への思いを込めた言葉であろう。この歌は家臣宛てに教訓を認(したた)めた書状のなかの一節で、後世に伝わることとなった。この歌の背景にあるものは何か。鷹山以前の上杉家を知れば、何をなす(為す、成す)のかが見えてくる。
秀吉天下の頃の会津藩の石高は120万石、関ヶ原の戦いで西軍についた結果、慶長6年(1601)に会津から米沢に減封になり30万石となる(家康天下の時代)。さらに、三代綱勝(つなかつ)が跡継ぎを定める前に亡くなったため15万石に減封される。当時はこのような場合、幕法により改易や御家断絶になるが幸いそれは免れた。
減封は何をもたらすか、当然財政難である。その理由としては、第一に6,000人とも伝えられる家臣を引き連れて米沢に入ったためである。第二の理由は、上杉家が名家であったことだと思う。
石高に見合った家臣の数であれば良いのだろうが、さすが上杉家、家臣を維持しリストラをしなかった。いや、できなかった。リストラしたところで、浪人があふれ領地が荒れるのは目に見えているし、また上杉家の“格”が家臣を減らすことを許さなかったのかもしれない。上杉家といえば、戦国の雄、謙信を藩祖とする名門中の名門である。一般の藩とは権威と格式が違うのである。名家ゆえの誇りを重んじたあまり、財政難に苦しんだともいえよう。家臣の扶持米を抑えたり、領民に重税を課したところでさほど効果もなく、借財は膨らむ一方であった。
そんな米沢藩存亡の危機に登場したのが鷹山である。上杉家の遠戚だった彼は養子として入り、17歳で明和4年(1767)藩主となる。その若さにしてすでに、藩主としての人格や素養を生涯の師となる儒学者、細井平洲(ほそいへいしゅう)から薫陶を受けていた。
鷹山が行った藩変革の具体例を3つ挙げるとすれば、倹約、産業開発(新規事業)、人材育成(学問の興隆)である。
藩主となるや「大倹令 (大倹約令) 」を発布。今までの藩主の豪奢な生活を改め、自ら質素倹約に努め衣服は木綿、日常の食事は一汁一菜を生涯通したという。倹約に合わせて「備籾蔵(そなえもみぐら)」を設置。凶作に備えて領民から籾を集め、藩をあげて備蓄した。そのおかげで天明3年(1783)の大飢饉のとき、米沢藩だけは一人の餓死者も出さなかったと伝わる。
倹約の一方で新規事業を興し「産業開発」に力を注いだ。米沢の特産物だった青苧(あおそ/繊維の原料)に加え、漆、桑、楮(こうぞ)をそれぞれ「100万本の植え立て」を行い復興を目指した。
「人材育成」のため学問の興隆にも取り組んでいる。鷹山の恩師である細井平洲を学館長に迎え「興譲館(こうじょうかん)」を創立。その名前からは、鷹山らしい謙譲の徳を興すという藩校の精神が伝わってくる。後身は、山形県立米沢興譲館高等学校である。
『なせば成る…』、それは改革、大変革であった。領民を大切にし藩建て直しの大事業を成し遂げた鷹山。鷹山逝去の翌年には、藩の借財20万両(約200億円/藩財政の6年分に相当)はほぼ返済された。
米沢城本丸跡の隣には鷹山を祀る松岬(まつがさき)神社。ここに「伝国の辞(でんこくのじ)」の碑がある。碑文は次藩主に宛てた内容で、藩主は領民のためにあり、領民は藩主のためにあるわけではない、と訓示している。「藩主主義」…そんな言葉はないだろうが、鷹山はまさに「民主主義」へ転じた名君だった。今風に言い換えれば「領民ファースト」の藩へ大変革を成したのである。
文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献『上杉鷹山公』上杉・松岬両神社社務所
『米沢藩』現代書館
すずき味噌店・味噌蔵(山形県西置賜郡白鷹町大字浅立3614)
味噌に織物の名前が付いているのが何とも不思議だ。「紅花紬」とは、紅花から採れる染料で糸を染めてから織る絹織物をいう。米沢紬の代表格である。期待を裏切るようで申しわけないが、紅花が入っている味噌ではない。なお、紅花は山形県の県花となっている。
米沢市の北方に霊山、白鷹山(しらたかやま)がある。その麓の白鷹町にある「すずき味噌店」で『紅花紬みそ』はつくられている。
鈴木徳則社長(みそ製造一級技能士)の案内で味噌蔵に入れてもらった。大小様々の味噌樽が並ぶ。そこで味噌をいただいた。実に旨い。“本当の味噌の味とは、こういうものをいうのだろう”と思うほど美味である。
材料となるのは地元山形県産の飯米、最高級といわれる十勝大豆、手づくりの昔ながらの製法を受け継いでいる。添加物は一切使わない。それに加熱処理をしない。酵母や乳酸菌が生きているのだ。鈴木社長は『いつも発酵の様子を見て、味噌と相談しながらやっているんですよ』と笑って説明してくれた。
「すずき味噌店」は、もともとは麹屋で100年近くも麹づくりを続けている。麹は味噌づくりに欠かせないものだ。『紅花紬みそ』の美味しさはここにも秘密がありそうである。面白いのは、個別の味噌づくりに応えていること。大豆、米、塩の配合の割合を指定してくるお客さんもいれば、材料持ち込みでの依頼(委託醸造)もあるという。オリジナルの味噌を仕込んでもらえば、まさにそれは自分好みの“手前味噌”の出来上がりだ。
紅花も紬も、もとを辿れば江戸時代に米沢藩第九代藩主、上杉鷹山(ようざん)が産業振興策として生産を推し進めたもの。鷹山という名前(隠居後の号)は、ここの白鷹山に因んでいる。そんな歴史、地理的な背景をもつ『紅花紬みそ』。米沢を深く愛し、振興しようという鷹山の思いを受け継いでいるかのようである。
文 江戸散策家/高橋達郎 写真 Endo-k
取材協力 (有)すずき味噌店 tel.0238-85-2443
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