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コラム江戸

租税(今の税金)の柱だった「年貢」。

検地の図 『徳川幕府県治要略』 出典 国立国会図書館貴重画データベース

令和元年10月1日から消費税10%が実施された。これを機に江戸時代の税金はどのようになっていたかを探ってみよう。そもそも消費税3%が初めて導入されたのは平成元年4月1日からで、江戸時代はありようもなかった。昭和の時代にもなかった税である。やがて消費税5%(平成9年)に引き上げられ、8%(平成26年)に引き上げられてきた経緯がある。そして同じく改元の年に大台の10%が実施されたことになる。

江戸時代の税金といえば、まず「年貢」だ。時代劇で、過酷な年貢の取り立てに耐えかねた農民が役人や悪徳代官に直訴するシーンは誰もが思い浮かべるだろう。やがて百姓一揆に発展していくこともあるが、江戸時代を通じて年中起こっているわけではない。一揆は特殊なケースで、役人と農民は何とか折り合いをつけてやっていたとみるほうが正しいと思う。一揆が起こるときは、年貢の引き上げの通達時がほとんどで、引き下げを要求する一揆は少ない。つまり、このままの年貢率にしておいてくれということで、それは消費税率が上がってきたときと状況がどこか似ている。

 

江戸幕府が全国を治めていたのはもちろんだが、税の種類や税率はその地方地方によってバラバラだった。国内の土地は、幕府直轄領(天領)、大名の藩領、旗本領(知行地)、寺社領などに分かれていて、それぞれの領主が税や税率を決めていた。
例えば、藩主などは年貢の税率を自由に決められるのだが、度を越して年貢を高くすれば当然農民は反発する。耕作者である農民が他の土地に逃げてしまう「欠落(かけおち)」が発生したら元も子もない。もし一揆でも起きようものなら、幕府から譴責され、場合によっては、領地を治める能力なしと判断され、改易(領地没収)になってしまうこともあるから藩主は気を抜けないのだ。

税を課す権力者側は取れるところから取れるだけ取る、といったら言い過ぎだろうが、税収の確保に加え公平性、継続性に留意しなければならなかった。そのために「検地」(領主が領地に対して行う土地調査)が実施されてきた。天正10年(1582)から全国規模で初めて行われた「太閤検地(たいこうけんち)」は、豊臣秀吉が天下を統一したからこそできたことである。江戸時代に入ってからも、この検地に倣い全国的に元禄時代まで行われた。それ以降も新田開発や必要に応じて実施されている。江戸時代の検地の説明を国税庁の「租税史料」を以下に引用しよう。
『検地の時には、土地の種類・広さ・収穫高と土地の耕作者が調査され、その結果は検地帳に記録されました。登録された耕作者は、土地の耕作権を認められる代わりに税を負担する義務がありました。また、検地によって定められた土地の石高(米の収穫高)は、これ以後年貢や諸役などを課税する時の基準になりました。』
年貢の税率が気になるところ。秀吉の時代は「二公一民」(収穫の三分の二が年貢)と厳しい。江戸時代は平均して「四公六民」といわれるが、実際の年貢率はもっと低かったようである。


検見 坪刈の図 『徳川幕府県治要略』
村内の数カ所の各田地1坪の稲を刈り取り、収穫を検査する。
出典 国立国会図書館貴重画データベース

年貢の算出方法には2種類あった。一年毎に収穫高を調査して課税する「検見法(けみほう)」と、収穫高に左右されず過去の収穫高をもとに年貢率を豊凶にかかわらず一定にして課税する「定免法(じょうめんほう)」だ。八代将軍徳川吉宗は、幕府直轄領を検見法から定免法に切り替えた(享保の改革/1716~)。この改革は幕府側にとって一定の効果があった。一方、農民側は、同じ年貢率ならたくさん収穫しようと俄然頑張ることになる。凶作の年もあるが、総体的には生産量が上がったといっていいだろう。

税(年貢)を徴収する側は少しでも多く取りたいし、税(年貢)を納める側は少しでも少なく済ませ、手元に多くを残したいというのは人情というもの。どの時代も変わらぬようだ。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『徳川幕府県治要略』安藤博編 大正7年
国税庁資料

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

『江戸切絵図』浅草御蔵前辺図 文久元年(1861) 
出典 国立国会図書館貴重画データベース

天領からの年貢は「浅草御蔵」へ。

年貢は隅田川西岸の浅草御蔵に水運を利用して集められた。浅草御蔵はいわば幕府専用の米蔵で、全国に散在する幕府直轄地(天領)の年貢米を収納、保管した倉庫である。約60万石(3万数千トン)が収蔵できたといわれる。幕府の御蔵は他にも大坂と京都にもあり、浅草には主に関東一円の米が集まった。ここは元和6年(1620)、近くの丘を切り崩し埋め立てた場所だ。多くの船が出入りする掘割が8本、整然と造成されている。

浅草御蔵跡碑
(台東区蔵前2-1)

御蔵に集まった米は、知行地(領地)を持たない旗本や御家人に支給された。彼らはここで給料(俸禄米)をもらう。米の現物ではしかたないので、近くの札差(ふださし)に売り、現金化するのがお決まりのコースだった。
札差は、旗本・御家人の代理人として俸禄米を年3回(2月、5月、10月)受け取り、米問屋に売却し手数料を取る商人である。また、困窮する旗本・御家人相手に俸禄米を担保に高利の金貸しをした金融業者でもあった。

札差や米問屋が立ち並んだ浅草御蔵の前側は「御蔵前(おくらまえ)」と呼ばれた。これが現在の町名「蔵前」の由来である。浅草御蔵のあった場所は、現在の都営浅草線蔵前駅と浅草橋駅を結んだ東側(隅田川側)。残念ながら浅草御蔵跡碑の他には、当時の面影は何もない。

文 江戸散策家/高橋達郎

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