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コラム江戸

長崎から広がっていった西洋文化。

『阿蘭陀 玉ツキノ図』長谷川雪旦
出典 国立国会図書館貴重画データベース

江戸で活躍していた長谷川雪旦は、唐津藩のお抱え絵師となり、道中立ち寄った出島内部を描いている。(1817年頃)

出島内に造られた「ミニ出島」(1820年頃の出島)
右下の建物が玉突場 左下は牛小屋と豚小屋

長崎・出島には、発祥の地といえるものが驚くほどある。横浜や神戸もその点似ているが、こちらは開国以降の話。鎖国の時代にあって、出島だけは西洋との交易が許されていたため、早くから西洋文化が入ってきた。

「ビリヤード」が初めて日本で行われたのは出島だった。図絵の左上に描かれている様子は、現在とは少しルールが違うポケットゲーム式のようである。西洋発祥のビリヤードは1780年代には伝わっていたと思える。このゲームを持ち込んだのは出島の商館員であるオランダ人、「玉突場」を設けて娯楽として楽しんだ。
商館員たちは自由に出島を出たり入ったりすることができなかったため、このようなレクリエレーション設備が必要だったのだろう。そればかりか、幕府の役人が出島を訪れたときなどには、この珍しいスポーツを披露する接待の役目もあったようである。
「バドミントン」も出島に伝わったスポーツ。起源はインドとされ、商館員が召使いとして出島に連れてきたインドネシア人たちのゲームだったという。「バドミントン伝来之地」の碑がある。
大浦天主堂に行く途中には「わが国ボウリング発祥の地」のプレートがあった。1861年6月22日、日本で初めて長崎居留地内に「インターナショナルボウリングサロン」なる施設がオープンしたとのこと。近くには「ボウリング日本発祥地」の碑もある。

  • バドミントン
    伝来之地の碑
  • ボウリング
    日本発祥地

最初にお断りしておくべきだったが、発祥の地、伝来の地、日本で初めての○○…、というのは、実は曖昧模糊としていて不明な点が多いものである。“本家”や“元祖”などと似ていてどちらが最初なのか分からないこともある。現地取材後もいろいろ調べても諸説あって、結論を出しにくいのが現状だ。したがって、本稿は現地情報・資料・文献等をベースにしていることでお許しいただきたい。こんなときよく思うことがある。立派な銅像とか石碑、モニュメントでも建てて大声で叫んだ者の勝ちなんだろうなぁ、と。

西洋の食べ物や食習慣も出島に上陸している。「オランダイチゴ」は聞いたことがあるだろう。現在は様々なブランド名も付いているが、一般にイチゴと呼んでいるのはこれである。オランダ人が持ち込んだからオランダ○○○と名が付く。「オランダ菜」はキャベツのこと、「オランダミツバ」はセロリのことだ。
他にも「赤ナス(トマト)」「アナナス(パイナップル)」「ジャガタライモ(ジャガイモ)」など。ジャガタラ(現在のジャカルタ)からオランダ船がやって来たのでその名前が付いた。そんな歴史を踏まえてか、今、長崎県のジャガイモ生産高は北海道に次いで第2位を誇る。昭和期に品種改良されたジャガイモは、上陸の地に因んで「デジマ」とネーミングされ現在も市場に出回っている。
長崎といえば、やはり「カステラ」を挙げないわけにはいかない。この南蛮菓子は今や発展して立派な和菓子の範疇だ。カステラはポルトガル人によってもたらされ、その時代は出島のできるおよそ100年も前 (室町時代)のことでさらに古い。
「南蛮茶(コーヒー)」の日本伝来の地は出島とされている。商館員たちの嗜好品で出島に訪れる日本人にも饗されたが、独特の味と香りに馴染めなかったことが記録に残されている。最初はどうも日本人の口に合わなかったようだ。コーヒーが一般に普及していくのは、ずっと時代が下って明治も半ば過ぎではないだろうか。

肉食の文化も出島から入ってきた。オランダ船には交易のための物品だけでなく、牛、豚、山羊などの食用の動物も積み込まれ、調理人も一緒に出島に来たのである。調理人は長崎市中からも雇われたため肉食文化が知られるようになり、一般に日本人に忌避されていた肉食はだんだん日本に広がっていった。
図絵の右隅に描かれた家畜小屋。出島にある説明板には、様々な種類の動物の骨が出土していて、出島の東側の庭園部分は動物園のようだったとある。

江戸の初期、寛永年間から対日貿易を独占してきたオランダと中国。オランダ人は狭い出島に閉じ込められた形であったが、国内のどこにもない特殊な場所で、西洋文化の流入地だった(出島は長崎奉行所管轄)。出島の当時の様子は、さながら日本の中にできた一つの国のようにも見える。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『出島』長崎市文化観光部出島復元整備室
『長崎游学9』長崎文献社

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

鳴滝塾舎『シーボルト先生:其生涯及功業』呉秀三
出典 国立国会図書館貴重画データベース

活躍した「出島三学者」とは?

日本の近代化に大きな影響を与えた「出島三学者」と称えられる人たちがいる。出島に滞在した時期は三人とも違うが、いずれも商館長(カピタン)に伴って商館医としてやってきた外国人である。

ケンペル(ドイツ人/1651-1716)、ツェンベリー(スウェーデン人/1743-1827)、シーボルト(ドイツ人/1796-1866)の三人。なぜかオランダ人ではない。オランダ人を装って入国したが、今でいう入国審査を行った長崎奉行所は、どうやら判別ができなかったようだ。
彼らは共通して医師であり、植物学、博物学の学者でもあり、また探検家のようでもあった。日本に進んだ西洋の医学や博物学をもたらしたばかりでなく、日本の自然や文化を西洋に紹介した。一方で、政治的に鎖国下日本の情報収集の使命を帯びていた側面もある。

  • シーボルト宅地跡(鳴滝塾跡)
    に隣接したシーボルト記念館
    (長崎市鳴滝2-7-40)
    写真提供:長崎県観光連盟

出島三学者のうち、最も知られているのがシーボルト。出島から少し離れた所に「鳴滝塾」を開き、無償で患者の治療をする傍ら、蘭学を学ぼうと全国から集まってきた学徒の教育にあたった。鳴滝塾からは優秀な門弟たちが育ち全国に散っていった。高野長英(医師・蘭学者、翻訳者)、美馬順三(医師、初代塾頭)、伊東玄朴(江戸に種痘所を創設)…列挙したら切りがない。
後年シーボルトは国外追放(シーボルト事件/1828年)となったが、幕府や日本人との関係も良好だった。それは、研究熱心で多くの門弟が集まったこと、江戸参府の折も多くの協力者を得ていたことからも明らかである。

文 江戸散策家/高橋達郎

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